「宗教国家アメリカの誕生」17 独立への道(6)「ボストン茶会事件」

 イギリス本国の「有益なる怠慢」政策の終焉が初めて広く認識されたのは、1765年の「印紙法」の導入によってだ。これは、新聞、パンフレット、証書、教科書(さらに、カルタや婚姻届 や大学の卒業証書まで)などあらゆる印刷物に課税することを定めた法律で、植民地の抵抗運動に質的な変化をもたらした。ひとつは、抗議運動が植民地の枠を越えて拡がったこと。10月には植民地議会が連帯して印紙法会議を開催した。そこで「代表なくして課税なし」というイギリス議会の原則に基づいて植民地代表のいないイギリス議会には植民地への課税権はないと決議し、「印紙法」の撤廃をイギリス政府に請願した。また、民衆の政治参加が一段と多くなった。1765年から翌年にかけて「自由の息子たち」(Sons of Liberty )と称するグループが北はニューハンプシャーから南はサウスカロライナに至るまで、少なくとも15結成され、多いときには数千人を動員、印紙法反対運動を展開した。ニューヨークではイギリス国王ジョージ3世の銅像を引き倒すなどの示威行為を行っている。

 1766年、印紙法の撤廃が決まるが、翌1767年には植民地に対する新たな課税法が制定される。紙、塗料、ガラス製品、茶など、本国や東インド会社の製品・産物である日用品の輸入に関税を課す、いわゆる「タウンゼンド諸法」である。この税は形の上では内国税ではなく関税とされたが、通商規制を目的とした外国製品への関税とは異なり、増税策であることは明らかであり、税関の強化策とも相まって、植民地全域で反発をまねいた。不買運動が活発化し、茶や装飾など、本国の商品に対するボイコット運動が展開する一方で、植民地産品をもっぱら用いようとする動きも強まった。このように消費面でのイギリス化を否定し、消費という個々人の日常行為が、新聞などの活字メディアの報道を通じて、植民地全体にとって意味を持つ行為へと変貌を遂げたのである。こうして13植民地全体が政治的に動員されることで、「アメリカ人」としての意識が次第に浮かび上がってきた。

「タウンゼンド諸法」への反対運動のさなかの1770年3月、ボストンに駐留していたイギリス軍が民衆に発砲し、黒人1人を含む5人が犠牲となる事件(「ボストン虐殺事件」)が発生した。直後に軍隊がボストンから引き揚げられ、ジョン・アダムズ(後に第2代アメリカ大統領)らが弁護に当たった兵士らは無罪放免となり、事件は収拾された。また4月には「タウンゼンド諸法」も、本国議会の至上権の象徴であるとともに重要な財源でもあった茶税を残して撤廃され、植民地は一時的な平穏を取戻した。

 しかし、3年後の1773年、本国議会は新たな茶法を制定する。東インド会社の経営を助けるため、本国に関税を納めずに茶を北米へ直送することを認めたこの法律により、茶の価格は下がって植民地側も歓迎するはずであったが、茶を密輸していた植民地の商人たちを中心に、本国の一方的な政策転換に対する反発が広がった。

 ボストンではサミュエル・アダムズらが反対運動を活発化させ、1773年末、先住民の扮装をした人々が東インド会社の商品を積んだ船を襲い、茶箱342箱(価格1万8千ポンド)を海に投じるという、「ボストン茶会事件」として後世有名になる事件が起こった。「くたばれ、茶!」という歌が生まれ、それはたちまち13植民地にひろがった。そして、茶を飲まずにコーヒーを飲むことが一斉に流行った。

 本国議会はこの事件に激怒し、翌1774年、懲罰のための一連の法律を制定。ボストン港閉鎖、マサチューセッツ植民地の自治の制限、裁判法(本国官吏軍人の本国における裁判を保障)である。さらにケベック法を成立させ、ケベック植民地の領域を拡大するとともに、同植民地でカトリックを公定教会と認めた(植民地ではプロテスタントが主流であるにもかかわらず)。これらの法律は植民地では「堪え難き(イントレラブル)」諸法と呼ばれ、反撥を強めた。かくして事態は先の読めない新たな段階へと突入してゆく。

1776年ジョージ3世の銅像を引き倒すニューヨーク市民

「パトリック・ヘンリー」

ピーター・フレデリク・ロザメル「植民地議会において印紙法の制定に反対の演説を行うパトリック・ヘンリー」

ジョン・シングルトン・コプリー「サミュエル・アダムズ」

ボストン茶会事件を描いたリトグラフ(1846年)

「ボストン虐殺事件」

地元ボストンの画家ヘンリー・ペラムの原画をもとにポール・リビアが制作。事実とは異なる。植民地人がイギリス側の弾圧をいかに効果的にアピールしたかがわかる。

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