「宗教国家アメリカの誕生」13 独立への道(2)「リバイバル」①ジョナサン・エドワーズ

 アメリカには、植民地時代に端を発する宗教的な伝統がある。それが、18世紀以降繰り返し訪れる「リバイバル」(信仰復興)の波だ。その克明な記録が初めて残されたのは、1734年のこと。初めは数人の「回心」(正しい信仰への目覚め)をきっかけに、一つの町全体に急速な宗教心の高揚が見られるようになる。風紀が改まり、慈善が増え、酒場が空になる。人びとはこぞって教会に集うようになり、礼拝は悲嘆の波や歓喜の叫びにあふれかえった。1730年代から1740年代にかけてアメリカのニューイングランドを中心に北東部で起こったリバイバルは「大覚醒(Great Awakening)」と呼ばれるが、その背景に何があったのか?

 ニューイングランドを中心とするアメリカ初期移民で、厳格なキリスト教観を持つピューリタン社会においては、ことさらに宗教と社会の結びつきが強く重要なものであった。そこでは、一般信徒にも神学的な聖書理解が推奨され、牧師が説教によって大衆に高度な聖書理解を指導する場である日曜礼拝は極めて重要な場だった。そのため牧師の養成が重要視され、例えば1629年に殖民が始まったマサチューセッツ湾植民地では、早くも1636年にアメリカ最古の大学と知られるハーバード大学の設立が決定されているが、その設立目的は牧師の養成にあった(ハーバードに限らず、当時のアメリカで設立された大学機関には牧師の養成機関という役割が期待されていた)。

 もともと説教運動として出発したピューリタニズムでは、知性偏重の傾向が強い。牧師は教理と論理を重んずる高度に知的な説教をしたし、一般の会衆もそのような説教を歓迎した。しかし、こうした知性偏重の社会構造には、世代を追うごとに反発も強まってゆく。

また、当時の植民地社会で重要だったのは「回心」だった。カトリックなど伝統的なキリスト教においては洗礼(幼児洗礼)においてキリスト教に入信したと見なされたが、ピューリタンにおいては、あくまで形式的なものとされ、成人してからの洗礼、回心を重視した。この回心の認定は、教会において共同体の代表者らを前に報告(信仰の告白)し、彼らが判断するという形式をとった。宗教との結びつきが強い社会において回心を認められるということは、社会(共同体)に認められることと同義であり、すなわち植民地社会において回心を認められることは切実な問題の1つであった。制度上は正規の教会員資格を得られても、自分がいまだ内面的には回心を体験していないことは、回心への希求を一層強めた。

 ニューイングランドに始まった「大覚醒」の最大の指導者は、ジョナサン・エドワーズとジョージ・ホイットフィールド。エドワーズは、1703年に牧師ティモシー・エドワーズの長男として生まれる。1720年には、イェール大学を若くして首席で卒業。大学院で学び、その後講師を務める。牧師として着任して以降は、1734年には、信仰義認に関する説教を続けてノーサンプトンの人びとの信仰を覚醒させ、半年の間に、300人が回心と信仰再生を体験したという。リバイバルの最初の波は彼の町とその周辺に限定されていたが、次の波は彼の予想を超えて大きく広がってゆくことになる。1741年に彼が隣町のエンフィールドで行った説教「怒れる神の手のうちにある罪人」は、おそらくアメリカ史上最もよく知られている説教の一つ。エドワーズは罪人を、燃えさかる地獄の業火の上に、いまにも焼ききれそうな細い糸でぶら下げられている蜘蛛に譬えた。

「昨夜あなたが目を閉じて眠った後、地獄に堕ちることなく再びこの世に目を覚ますことができたのは、まったく何の理由もないことです。あなたが今朝起きて後、地獄に堕ちなかったことには、何の根拠もありません。ただ神の手があなたを支えていたにすぎないのです。あなたが今日礼拝をするためにこの教会に座ってから今の時に至るまで、地獄に堕ちなかったことにも、何ら根拠はありません。まさに今この瞬間、あなたが地獄に堕ちないでいられるのも、まったく理由のないことなのです」

 説教が進むにつれ、聴衆の間に重苦しいどよめきが起こり、人々は椅子から転げ落ちるようにして説教壇に駆け寄り、「救われるためには何をしたらよいのでしょうか」と尋ねたという。

ジョナサン・エドワーズの説教

ジョナサン・エドワーズ

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