「宗教国家アメリカの誕生」12 独立への道(1)植民地人のイギリス人意識
北アメリカ大陸にイギリス人が定住してから約1世紀半の間、アメリカのイギリス植民地は政治的・経済的に安定した発展を示した。1760年代には、植民地の人口は合計150万人を超え、1700年当時に比べると6倍に増えていた。それにともない、ヨーロッパから受け継いだもの、アメリカの自然環境への適応の中から生まれたもの、アフリカ出身者(黒人)との接触からえたものなどが混合して、アメリカ独自の文化(生活様式ならびに価値体系)が形成された。それはのちに植民地がイギリス本国から分離・独立する際の思想的基盤となった。
ベンジャミン・フランクリンは1780年代初めに『アメリカへ移住しようとする人々への情報』として、次のような文を著わした。
「ヨーロッパの貧民ほど惨めな人びとも少ないし、ヨーロッパで金持ちと呼ばれているような人々もごく少ないし、むしろ全般的にみな中庸で幸福なのである。大土地所有者は少なく、小作人も少ない。大半の人びとは、自分自身の土地を耕すか、なにか仕事や商業をやっている。・・・・人口は急速に増えているので、どこでも就職の機会がある。・・・・家柄がよいというだけの人が、そのためだけの理由で、なにか官職か俸給を得て、社会に寄食しようとすれば、軽蔑され無視されるであろう。そこでは、農民それに職人でさえ尊敬されている。彼らの仕事が有用だからである。・・・・要するに、アメリカは労働の国であって・・・英語のいわゆる「怠け者の国」、フランス語のいわゆる「夢の国」ではけっしてない。」
また、フランスの小貴族の子として生まれ、ケベック攻防戦(1759年)にフランス軍将校として従事した後、農民としてニューヨークに定住したミシェル・ギョーム・ジャン・ド・クレヴクールは、『アメリカ農夫の手紙』(1782年ロンドンで出版)の中で、アメリカとヨーロッパの違いについてこう述べている。
「(アメリカは)ヨーロッパのように、あらゆるものを所有する大領主と無一物の一群の民衆とで構成されているのではありません。ここには貴族も、宮廷も、王侯も、僧侶も、教会領地も・・・・何千の人びとを使用する大製造業も、素晴らしく優雅な贅沢品もありません。富める者と貧しい者が、ヨーロッパのように大きく隔たっておりません。」
さらにクレヴクールは、このようなところに住む人間は他の世界では見られない「新しい人間」であるとした。
「アメリカ人は新しい原則に基づいて行動する新しい人間です。したがって、アメリカ人は新しい思想を抱き、新しい意見をもたなければなりません。不本意な怠惰、奴隷的屈従、貧困、無益な労働から、豊かな生計を報酬として与えてくれるまったく異なった性質の労働へと移ったのです。」
フランクリンやクレヴクールのことばに示されているように、イギリスの北米植民地の成長、発展は、そこに住む者たちに、自分たちは北アメリカ大陸に住むイギリス人であるという認識とは異なる新しいアイデンティティを生むことになる。もちろん、ことはそれほど単純ではない。少なくとも1760年代半ばまで、13植民地に共通するアイデンティティのなかでイギリス人意識の占める比重は依然大きく、当時共有されていた植民地の一体感は、本国というモデルを介してイギリス化した結果ととらえられる。植民地戦争もイギリス化を促進した。「フレンチ・インディアン戦争」(1754年~63年)では、本国の軍隊と共に戦い抜いた結果、イギリス人意識を一層強め、イギリス帝国への大いなる貢献を自負するに至った。フランクリンも、帝国の首都が本国から植民地へ移動する可能性について堂々と論陣を張ったほどである。だから、早期のアメリカ人意識の成立を前提に、あたかも熟した実が枝から自然に落ちるかのごとくアメリカ独立革命を説明するかつての論にしたがうことはできない。では、社会のイギリス化が進行し、イギリス人意識が高まっていた13植民地は、そのような状況下で、なぜ独立へと向かうことになったのか?
100ドル紙幣に描かれているフランクリン
「ベンジャミン・フランクリン」ナショナル・ポートレート・ギャラリー
1754年以前の北アメリカにおける勢力分布
1765年以後の北アメリカにおける勢力分布
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