「宗教国家アメリカの誕生」6 コロンブスからメイフラワー号(4)「ピルグリム・ファザーズ」①

 アメリカ合衆国がこれまでに受け入れた移民の数は世界のどの国よりも多く、合計5,000万人を超え、現在も年間70万人近くを受け入れているとされる。それは、多くの労働力を必要とするという経済的な理由ばかりではない。人類の避難所という自己イメージを持ち、政治的迫害から逃れてくる難民を寛大に受け入れる、政治的理由に基づいている。この点で南部の植民地に比べると、ニューイングランドの植民地には自らの信仰の自由を確保したいという願いが、建設の動機として強かった。その代表的な例が、プリマス植民地を建設した「ピルグリム・ファザーズ」である。

 彼らについて理解するには、当時のイギリスの宗教事情を知る必要がある。イギリスは、ヘンリー8世、エリザベス1世時代に、教会をローマ・カトリック教会から分離させてイギリス国教会(アングリカン・チャーチ)を作った。しかし、主として政治的理由から誕生したものゆえ、その教会形体においても、その礼拝形式においても中途半端な面が多い。そこで、宗教改革の線にそった純正なプロテスタント教会にしようではないか、という動きが出てくる。イギリス国教会を内部から純化、ピューリファイしようという意味で「ピューリタン」と呼ばれているグループである。それに対してさらに、イギリス国教会の中に止まってそれをピューリファイしようとしても無理であり、信仰を全うしようとするならば、イギリス国教会から出て行かなければならないとする「分離派」(セパラティスツ)と呼ばれるグループが出てくる。彼らはイギリスの体制から言えば、異端者であり、迫害され、死刑になる人も出る。地下運動的に礼拝を守ることもやっていたが、やがてイギリスを離れて自由なところで自分たちの礼拝を守ろうとする動きが出てくる。1607年、ロンドン北東の寒村スクルービの分離派の集団(彼らが後に「ピルグリム・ファザーズ」と呼ばれるようになる)がロビンソン牧師の指導のもとに国外移住を決意する。

 彼らが最初に移住先として選んだのはアメリカではない。オランダだった。オランダは、カルヴァン派がカトリック大国スペインとの長い戦争を経て独立を獲得(1581年の独立宣言後、1609年にスペインとの講和が成立して実質的な独立を獲得。独立が国際的に承認されるのは1648年のウェストファリア条約)したプロテスタントの新興国。しかし、そのオランダも彼らの安住の地とはならなかった。彼らははじめアムステルダムに、ついでライデンに住んだが、農民であった彼らが異国の都会で新たに仕事を得ることの困難、言語の違い、周囲の奢侈や自由が子孫の教育に及ぼす悪影響などを憂えたため、彼らは自身の信仰を守りつつ、なおイングランド人として暮らすことのできる土地を新たに求めて、当時すでにイギリス人が移住していた北アメリカ大陸への再移住を決意したのである。

 以上のような経緯から、ピルグリムらの入植は女性と子供を含む家族単位で行われた。これは、労働力としての成人男性を中心とするそれまでの植民計画と大きく異なる新しい特徴である。アメリカに渡るには資金が必要だが、もともと金持ではないうえ、イギリスからオランダに渡る際に大部分使ってしまっていた。当時のイギリスにおけるアメリカへの植民事業は、私的企業が会社組織で、あるいは株を発行して資金を集めて行うというやり方。ピルグリムらは、ヴァジニア地方での植民地経営を行っていたヴァジニア会社に頼んで、ヴァジニアの一部に入植したいと願い出る。そのことは認められるが、当時のヴァジニア会社は財政難で資金を出せないため、外から資金を集めなければならない。そこで重要な問題が出てくる。投資する側から言うと、このセパラティストの人たちはなるほど敬虔な立派な人かもしれないが、彼らだけでアメリカの荒野に行って新しい植民地を作るなどということが果たしてできるだろうか、不安である。投資家側としては、これはあくまで事業であり、しかるべき利潤を得なければならない。したがって、この植民事業を成功させるためにはこの人たちだけでなく、もっと頑健な働き手を募集して、一緒に送ろうということになる。そのため、メイフラワー号に乗り込んだのはセパラティスツのグループだけではなかった。

ウィリアム・ハルソール「プリマス港でのメイフラワー号」

アントニオ・ギスバート「ピューリタン(ピルグリム・ファーザーズ)のアメリカ上陸」

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