「宗教国家アメリカの誕生」5 コロンブスからメイフラワー号(3)「ジェイムズタウン」
ジェイムズタウンは、入植後わずか半年余りで飢えとマラリアで半分以下に減少したが、ジョン・スミスの優れた指導と先住民(ポーハタン族)の協力があって生き延びることができた。そのためこの入植地は「恒久的植民地」と呼ばれ、ここにイギリス領北米植民地の歴史が始動する。1607年は、有名なメイフラワー号の航海(1620年)よりも10年以上早い。つまり現在のアメリカ合衆国へと直接つながる最初の礎石は、北部ではなくここ南部の地に築かれたのである。
入植後、厳しい開拓の時期が続き、植民開始から10年を経ても利益の配当はなかったが、ジョン・ロルフがタバコ栽培をこの地にもたらし、繁栄に導いた。当地の先住民が用いていたタバコの栽培種ニコティアナ・ルスティカの味は入植者たちの嗜好に合わなかったが、ロルフはいま一つの栽培種ニコティアナ・タバクムを導入して植え付けに成功し、ここにイギリス領北米植民地最大の商品作物となるタバコの栽培が開始されたのである。
ところで、ヴァージニア会社が国王ジェイムズ1世から授けられた特許状には、植民地人およびその子孫はイギリス本国の国民と同じ自由や権利を享受できると記されていた。植民地の発展のために配慮されたこの立憲主義的措置は、北アメリカの植民地でイギリス本国よりも速いペースで拡大していった。ヴァージニアでも、1619年7月30日に最初の議会が招集され、植民地人が選出した20人の議員が出席して、イギリス領植民地が立憲主義を北アメリカに移植する第一歩になった。事実、17世紀のイギリス本国が、1688年から翌年にかけての名誉革命に至るまで混乱の時代を経験していったのに対して、北アメリカ植民地にはその影響もさほど大きくなく、自生的に発展する地歩が築かれていったのである。
1619年は、最初の植民地議会(自治的議会)が開催されただけでなく、初めて黒人奴隷がもたらされた年でもあり、いわばアメリカの光と影の双方を象徴する出来事が生じた年である。そして、ヴァージニアのタバコ栽培の順調な発展は、17世紀末までに数千人の規模で使用されるようになった黒人奴隷の労働に負うところが大きい。
では、先住民と入植者の関係はどうだったのか?タバコ栽培は短期間に地力を痩せさせてしまうため、どうしても耕地拡大を求めるようになり、それに伴って入植者も広く点在して住むようになる。いきおい、入植者同士の関係は希薄になり、先住民との関係は険悪にならざるを得ない。それでも当初は1614年にポーハタン族長の娘ポカホンタスがキリスト教の洗礼を受けた上で入植者ジョン・ロルフと結婚し、その後イギリスに渡ってアン女王に謁見するなど、友好的で明るい挿話も散見された。しかし、この地の先住民たちは、1618年に族長ポーハタンが死去したのち、入植者に対して態度を硬化させ、1622年3月22日、ついに一斉蜂起してヴァージニア入植者人口のおよそ3分の1を殺害したとされる。辛うじて崩壊を免れた(首府ジェイムズタウンは、キリスト教に改宗したある先住民の密告で辛うじて難を逃れた)植民地側は、イギリスから人と武器を補充して反撃の態勢を固め、1644年にオペチャンカナウが攻撃を仕掛けると撃退して、それ以降ヴァージニア植民地への先住民の脅威は薄らいでいった。しかし、先住民との戦いを通じて、植民地人は先住民を敵視するようになり、残虐な戦闘を繰り返すことになったのである。
ヴァージニア植民地は、本国のヴァージニア会社の経営が行き詰まったため、1624年に王領とされた。その首府は、17世紀末にジェイムズタウンから、より内陸のミドル・プランテーションに移り、当時の国王ウィリアム3世にちなんでウィリアムズバーグと改名された。また王領化にともない、植民地の統治機関として総督と参議会員が国王によって任命され、代議院が廃止され立憲主義は後退した。またイギリス国教会が唯一の公定教会と制定され、区割りによる教区が設けられて公給制による牧師が派遣された。それに対し、チェサピーク湾岸に建設されたもう一つの植民地メリーランドは、その国教会の迫害から逃れるために住民の信仰の自由を認めた北アメリカ最初の植民地である。
ジョン・ギャズビー・チャップマン「ポカホンタスの洗礼」
ポカホンタスの後ろが夫となるジョン・ロルフ
「ポカホンタス像」ジェイムズタウン
ジョン・ホワイト「ロアノーク島でのポウハタン族の儀式の踊り」1585年
ジョン・スミス
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