「宗教国家アメリカの誕生」3 コロンブスからメイフラワー号(1)コロンブス

 アメリカの歴史は、コロンブスがアメリカ大陸を「発見」した1492年に始まるわけではない。当時そこにはすでに南北あわせて5千万人とも言われる先住民(ネイティヴ・アメリカン)が住んでいた。そして、彼らも長い旅路の果てに、アメリカ大陸にたどり着いた人々。およそ20万年前にアフリカで誕生した現生人類の一群は、やがて東方、アジア方面へと移動し、シベリアへ到達する。2万数千~1万数千年前には氷期で水位が下がり、彼らの眼前に約1600㎞におよぶ広大な陸地「ベーリング陸橋」(ベーリンジア)が出現する。アメリカ先住民の祖先たる彼らモンゴロイドは、およそ1万数千年前にこの陸橋を渡り、紀元前9000年頃には南米大陸の南端にまで達していたと推測される。そして、氷期の終焉とともに水位が上がって陸橋が水没すると、新旧両大陸は互いに閉ざされてしまう。かくして北米大陸では、いわゆるパレオ・インディアン(古インディアン)の狩猟文化が展開することになる。

 このベーリンジア消滅以来の封印が破られ、先住民の生活が壊滅的な変容を迫られることになるのはコロンブスによるアメリカ大陸「発見」以降のこと。確かにコロンブスは、自分が到達した土地はアジアであり、「新大陸」と認識してはいなかった。「新大陸」と明言し「アメリカ」という概念の基礎を造ったのは、コロンブスよりやや遅れて大西洋を渡ったアメリゴ・ヴェスプッチである。「アメリカ」は彼のファーストネームのラテン語形アメリクスの女性形に由来している。しかし、このような「認識上」の大転換をもたらした「経験上」の出来事は、1492年のコロンブスのアメリカ到達だろう。確かに、新世界を最初に訪れたヨーロッパ人は、コロンブスではない。彼より500年も前に、ノルマン人(ヴァイキング)がすでにカナダのニューファンドランド島に到達していたようだ。しかし、新旧両大陸の封印が破られ、孤立していた二つの世界が驚くべき勢いで交流を開始したのは1492年以降のことである。

 ところでコロンブスの航海は、カトリック国スペインの女王イザベラの援助とローマ教皇の認可のもとに行われた。残された文書から見る限り、コロンブス自身も敬虔なカトリック教徒であったと言える。彼は、先住民たちが速やかにキリスト教へと改心することを願い、迫りくる終末を迎えるために、新大陸からもたらされるであろう利益がエルサレムの再キリスト教化に用いられることを願っている。

 ここで言いたいのは、アメリカのキリスト教史は、プロテスタント(プロテスタントを生んだ宗教改革が本格的に始まるのは1517年のルターによる「95か条の論題」の発表)ではなくカトリックに始まったということだ。新大陸で最初に印刷された書籍も、1640年のピューリタン『詩編歌集』(The Bay Psalm Book)ではなく、メキシコシティで1556年に印刷されたカトリック『ミサ通常文』(Massa Ordinarium)だった。しかし、このようなカトリック的アメリカは、その後1世紀ばかりの間に、イギリスのピューリタン入植(1620年)によるプロテスタント的なアメリカへと変貌してゆく。では、この1492年から1620年の変遷はどのようになされたのか?

 スペインはコロンブスの発見を拠点として、エルナンド・デ・ソト(現在のアメリカ合衆国の領地へ最初の白人の遠征隊を率いて、ミシシッピ川を白人として最初に発見した)、フランシスコ・ピサロ(1533年、ペルーのインカ帝国を征服)、エルナン・コルテス(1521年、メキシコ高原にあったアステカ帝国を征服した)を送ってフロリダ半島、ユカタン半島、メキシコへと征服地を広げ、その足跡はパナマ地峡を越えてペルーにまで達した。1545年には、ポトシ銀山が発見されたが、南アメリカから運び込まれるこの大量の銀は、ハプスブルク家の王位を継承し、やがてヨーロッパ中を戦乱へと引き入れるスペインにとり、その戦費を賄う重要な財源となっていった。こうして、16世紀の覇者となったスペインだったが、キリスト教世界の威信をかけてオスマン帝国と戦い、カトリックの大義を掲げてオランダ(ネーデルラント)のプロテスタント反乱勢力と闘い、ヨーロッパの覇権を求めてフランスと戦ううちに、国力を使い果たして言った。1588年にはスペイン無敵艦隊は弱小国イギリスに大敗してしまう。

プエブラ「コロンブスのサン・サルバドール島上陸」プラド美術館

ギルランダイオ「コロンブス」ペーリ海事博物館(ジェノヴァ)

エルナンド・デ・ソト

エマーブル・ポール・クタン「フランシスコ・ピサロ」ヴェルサイユ宮殿

「エルナン・コルテス」王立サン・フェルナンド美術アカデミー

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