「平戸・長崎三泊四日」2 10月4日平戸(2)松浦隆信(道可)②

 1558年、ガスパル・ヴィレラの布教によるわずか2カ月での1300人の改宗、三つの元寺院の教会への改修に、仏教界は危機感を抱く。一僧侶が隆信に働きかけたことを機に、迫害が起り十字架は切り倒された。ヴィレラは隆信から事態が鎮静したら呼び戻すとの口実で追放される。その後、隆信が詫びたため、ポルトガル船は平戸に入港していたが、1561年、「宮の前事件」が起きる。平戸に入港したポルトガル船の乗組員と平戸の商人との間で生糸の取引値段のことから口論となり、仲裁に入った武士をポルトガル人が斬りつけたため、双方に死傷者を出す大乱闘となった。七郎宮の前で起こったため「宮の前事件」と呼ばれる。

 隆信は、この事件を理由に南蛮貿易が断絶するのを恐れた。そこで、豊後の日本布教長コスメ・デ・トーレスニ書簡を送ってキリスト教を保護し、教会堂の建設を許可することを約束。しかしトーレスは隆信を信頼できず、ひそかにルイス・デ・アルメイダを大村領内に派遣し港を調査せた。そして、1562年、平戸に代わる港として横瀬浦が開港。教会が建てられ、多くの商人たちで賑わった。1563年に来日したルイス・フロイスもこの港に上陸した。また、大村純忠は家臣20名とともにここで受洗し、日本最初のキリシタン大名となり、ポルトガルとの結び付きを強固なものにしていく。

しかしこの年、純忠に対する反乱によって横瀬浦は放火され、開港からわずか1年余りで壊滅した。これを知った隆信は、再びポルトガル船の平戸入港を希望。度島(たくしま)に滞在していたフロイスは、隆信に対して、ポルトガル船の入港と引き換えに、教会の再建などを要請する。このとき隆信が建立を認めたのが「おん宿りのサンタ・マリア教会(日本名「天門寺」)」といわれ、「王直」の屋敷の近くにあったようだ。カブラル、コスタ、フェルナンデス、ゴンザルベスの4人が常駐し、九州北西部の拠点として平戸を含む博多以西の教区を受け持っていた。

 しかし、1565年、ポルトガル船は平戸に入港せず、大村氏領の長崎福田港に入港する。これを知った隆信は激怒し水軍と、平戸に入港していた堺の商船(大型船10隻と小型船70隻)を軍船に艤装させ、福田港を襲わせる。平戸松浦氏の兵船は最初戦いを有利に進めポルトガル船に乗り込み白兵戦となったが、やがてポルトガル船は態勢を整え確実な砲撃をもって勝利した。この軍事衝突により二度とポルトガル船が平戸に入港することはなくなる。

 隆信は1568年に隠居し、二十六代の鎮信(しげのぶ 法印)が封を継ぐ。この鎮信の長子久信に、大村氏と講和のために大村純忠の娘メンシア(松東院)が1586年に嫁ぐ。メンシアは、父と同じく熱心なキリシタン。義父鎮信、夫久信は棄教を迫ったが、メンシアの決意は固く、棄教を強制するなら離縁し大村に返すように訴える。やがて二十八代となる隆信を出産し、また夫久信もメンシアが愛おしかったのか、不問に付してキリシタンであることを認めた。

 1587年、豊臣秀吉の九州征伐で平戸松浦氏は所領を安堵されたが、時を同じくして秀吉は「バテレン追放令」を発令。やがて朝鮮出兵が始まり、鎮信・久信父子も参戦のため渡海を秀吉から命じられ、キリシタン弾圧が直ちに実行されることはなかった。

 1598年、朝鮮出兵が終わり、その翌年隆信が死去。鎮信は籠手田安一(ドン・ジェロニモ)・一部正治(ドン・バルサダル)に仏教徒として葬儀に参列するよう命じる。二人はそれを拒否し、一族800人を引き連れ長崎に亡命。鎮信は、1609年、生月島で籠手田氏一族亡命の後、キリシタンの指導的立場であった西玄可(ガスパル)とその妻子を処刑。ガスパルは斬られる前に、討手となった友人に、以前、十字架がたっていた場所での処刑を願い聞き入れられる。そこは「黒瀬の辻」といい「クロス」が変化したもののようだ。現在、十字架が建っていている。江戸時代となりキリシタンの処刑が行われたが、1645年、生月島の処刑をもって領民でキリシタンの弾圧は終わる。そして、籠手田氏・一部氏の領民でキリシタンの子孫は、密かに潜伏キリシタンとなり、信仰を後世につないでいった。

「黒瀬の辻殉教地(ガスパル様)」

  キリシタンへの迫害が厳しくなるまで、コスメ・デ・トーレス神父が建てたといわれる十字架があった場所。その後「ガスパル様」と呼ばれ、いまも隠れキリシタンとカトリックの信仰の地となっている。  

25代松浦隆信

26代松浦鎮信

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