「平戸・長崎三泊四日」1 10月4日平戸(1)松浦隆信(道可)①

 やっぱり平戸は遠かった。これまで行きたいと思いながら足が向かなかったが、急な事情で一人旅になったので、五島列島で2泊する計画を変更して、平戸1泊、長崎2泊にした。羽田から長崎空港まで1時間50分、そこから佐世保までバスで1時間29分、さらに平戸桟橋までバスで1時間32分。鉄道だと平戸の最寄り駅は「たびら平戸口駅」だが、「本土」を北海道・本州・四国・九州の四島とした場合には本土最西端の駅である。ここから平戸島へは、1977年に平戸大橋ができるまでは、フェリーで渡らねばならなかった。そのフェリー2隻にはポルトガル語とオランダ語の名前がついていた。その二国は相前後して平戸にやって来て、平戸の町の富と文化の形成に大きな役割を果たした。それを記念するためだった。

まず訪れたのは「松浦資料博物館」。松浦氏25代当主松浦隆信(道可)という人物に大いに興味があったからだ。1550年、ポルトガル船が平戸に初めて入港する。これには、ある人物が大きく関わっている。その人物とは明の密貿易業者,倭寇の頭目「王直」。王直は、密貿易を仲介して財を成し、ジャンク船の船主として東シナ海に勢力をふるっていた。王直の根拠地の一つは薩摩坊津で、島津氏は密貿易で大いに潤っていた。薩摩ばかりに巨利を得させてなるものかと、隆信は配下を王直へ送って接触させ、ついに王直の本拠を平戸に誘致するのに成功。その歓迎ぶりは、自らの居城を王直に与え、自らは、のちのオランダ商館近くの高地に新たな城を築いて移り住んだほど。王直の屋敷は、道可の隠居名の印山道可にちなんで「印山寺屋敷」と称されたが、現在は、その跡地には金光教平戸教会が建っていて、当時の面影はない。

 ポルトガルは、ヴァスコ・ダ・ガマが1498年、インド航路を開拓しカリカットに到達したが、その後1510年、ゴアを完全占領、1511年、マラッカ攻略、1512年、香料諸島到着。さらに南シナ海に進出して民国商人と密貿易を始めるが、その過程で王直を知ったようだ。そして、王直の手引きで、ポルトガルは日本という貿易上の宝庫を知る。1543年のポルトガル船の種子島漂着も王直が関係したのではないかと言われている。

 新来のポルトガル人が、王直と違ったのはキリスト教布教が貿易と一体だったこと。例えば、鉄砲を売っても、火薬の製法は教えず、製法を知りたい隆信にこう言ったとされる。

「この火薬御所望ならば、わが宗旨に成り給ふべし。さなくば教え難し。」(松浦家『壺陽録』)

 キリシタン嫌いの隆信という男、どうしたか?重臣の籠手田(こてだ)左衛門安経に因果をふくめ信者にさせたのだ。ところが籠手田左衛門は熱心な信者(安経【やすつね】アントニオ)となり、彼が領主だった生月(いきつき)、度島(たくしま)などがザビエルが去った(1550年)後のキリシタン信仰の中心となった。彼は、弟の一部勘解由(いちぶかげゆ)とともに、平戸の教会のために尽くしたが、その子孫たちは1599年迫害に遭い、一族家臣を引き連れて長崎に亡命することになるが。

 ポルトガル船の来航は平戸を活気づかせ、隆信は貿易船が永続的に平戸に来ることを願望し、インドから日本視察に向かっていたイエズス会インド管区副官区長メルシオール・ヌーネス・バレットへの書簡の中で、自分も幾度かキリスト教の教理を聴聞して好感を抱き信者になる意向であり、尊師の来訪を大いに喜ぶであろう、とまで表明している。もちろん、本心とは思えず、あくまで貿易船の来航につながることを期待しての表明だったろう。それでも、隆信はザビエルとの約束で1552年に来日したバルタザール・ガーゴに、キリシタンの埋葬用の土地を与え、ガーゴはそこに十字架一基を建てた。ガーゴとは籠手田左衛門とその妻子、弟一部勘解由、隆信の弟信実(のぶざね)に洗礼を授けたイエズス会司祭。隆信が保護した彼の布教によって、1555年には平戸のキリシタンは500人に達した。しかし、キリシタンの増加は寺院や仏僧らとの関係を難しくする。それに拍車をかけたのは、キリシタンによる寺社や仏像などの破壊行動だった。1558年、ポルトガル宣教師ガスパル・ヴィレラの活躍で平戸のキリシタンは1500人に急増。三つの元寺院が教会に改修される。

「平戸大橋」

 1977年4月4日に有料道路として開通 

「松浦隆信像」歴史の道

「王直像」歴史の道

「印山寺屋敷」跡 現在は、その跡地には金光教平戸教会が建っている

「ポルトガル船入港之地」碑

「ポルトガル船入港記念碑」

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