「長崎とキリスト教」5 ザビエル離日
豊後国の領主大友宗麟([そうりん]=義鎮[よししげ])は、領内での布教を許可した。宗麟は早くからキリスト教に関心を寄せていたが、側室の問題などもあって受洗はできなかった(受洗したのはかなり後の1587年)。ザビエルは豊後滞在2カ月にして、1551年11月に日本を発った。ザビエルが日本において実際に布教活動を行ったのは、わずかに2年3カ月であった。彼が短期間で日本を離れたのは、長くゴアを開けているのに、ゴアから全く手紙が届かず、インド宣教の責任者であるザビエルが心配になったこともあるがもうひとつある。
彼は、1552年1月29日付、コーチン発、ロヨラ宛書簡において、日本を離れた直後に日本布教の概略を述べている。そこには、日本に派遣すべき人材に必要な条件などが述べられており、日本が布教に適した国であると述べている。日本では議論がなされるので、学識があり、弁証法(注:本来は対話、弁論を意味する。未解決の問題について、蓋然性と一貫性をもって議論し、弁明する方法)に通じた宣教師が必要であるとしている。同時に、彼は、中国布教に対する関心を示しており、同年1552年のうちに中国に赴きたいと記している。ザビエルは中国布教を日本布教の手段、すなわち中国をキリスト教に改宗させることができれば中国文化を尊重し、多大な影響を受けている日本も改宗するはずであると考えていた。この思いがザビエルをいったん日本から離れさせたようだ。しかしザビエルが帰って来ることはなかった。
ゴアへ戻った後、ザビエルはマラッカへ向かう。ポルトガル商船で広東沖のサンシャン(上川)島まで行くも、明の海禁(鎖国)政策によって本土へは入れない。金をつかませて入国の手引きまでしてもらうが、結果的にはだまされて入国できない。そのうちに、1552年11月末頃から病気になり、だんだん悪化し12月3日未明に息をひきとる。
サビエルが去った後の平戸は、生月(いくつき)、度島(たくしま)、根獅子(ねしこ)などの領主籠手田(こてだ)家がキリシタンの中心となった。信徒は増加し続け、1557年に府内から派遣されたヴィレラ神父が平戸に滞在した1年間に、わずか2カ月で1300人が改宗し、3つの元寺院が教会に改修された。そのため、これに危機感を抱いた一僧侶が松浦隆信に働きかけたことを機に、迫害が起こる。ヴィレラは隆信から事態が鎮静したら呼び戻すとの口実で追放される。1558年のことである。
この後も、マカオからの商人たちは平戸に入港していた。1561年、事件が起きる。平戸に入港したポルトガル船の乗組員と平戸の商人との間で生糸の取引値段のことから口論となり、仲裁に入った武士をポルトガル人が斬りつけたため、双方に死傷者を出す大乱闘となった。ポルトガル人は、船長をはじめ14人が死亡。平戸港そばの七郎宮の露店で発生したことからこれを「宮の前事件」という。この事件で平戸を撤退したイエズス会は、平戸に代わる港を探していた。アルメイダはひそかに大村領内の横瀬浦を視察、大村純忠と開港協定を結び、横瀬浦を貿易港として開港させることに成功する。ポルトガルとの貿易は、莫大な利益をもたらすため、諸国領主は領内へのポルトガル船入港を望んでいた。しかし、貿易とキリスト教布教は切り離せない関係にあった。まわりを敵に囲まれた小さな大村領の純忠にとって、貿易により財政的基盤を強化することが必須であったに違いない。
1562年に開港した横瀬浦には教会が建てられ、多くの商人たちで賑わった。純忠は家臣の1人をここに住まわせ、なにごとも宣教師の忠告や意見を聞いてから行うように命じたという。しかし1563年、純忠に対する反乱によって横瀬浦は放火され、火はまたたく間に燃え広がり、開港からわずか1年余りで壊滅。この後、福田に移った港はまたも憂き目にあう。松浦孝信によるポルトガル船襲撃である。この戦いはポルトガル側が勝利したが、福田港は直接外海に面し波風が激しく、貿易港としては適していなかった。こうして福田に代わる安全な港として調査の対象になったのが長崎である。いよいよ長崎が歴史の表舞台に登場する。
横瀬浦
左に見えるのが「八ノ子島」。南蛮船はこの十字架を目印に入港してきたという。現在の十字架は1962年南蛮船来航400年を記念して再建された。
ヴァン・ダイク「大友宗麟に拝謁する聖フランシスコ・ザビエル」シェーンボルン伯爵コレクション ボンメルスフェルデン
とても日本人には見えない大友宗麟
大友宗麟の墓(津久見市)
怡雲宗悦賛「大友宗麟像」
アンドレ・レイノーゾ工房「日本の大名に説教する聖フランシスコ・ザビエル」サン・ロケ協会博物館 リスボン
ゴヤ「聖フランシスコ・ザビエルの死」サラゴーサ美術館
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