「長崎とキリスト教」4 ザビエルと平戸・京都・山口
1550年9月、ザビエルはアンジローを鹿児島に残して平戸に移る。
「昨年末、鹿児島の領主が私たちの宗教の発展に反対していることがわかったので、私たちは別の場所へ移ることに決めました。」(1551年7月某日付ザビエルのゴアのイエズス会宛書簡)
鹿児島で入信者が増えてくるようになると、やがて仏僧たちは領主の貴久に布教禁止を強く求めるようになる。
「(仏僧たちは)この領主に迫り、もし領民が神の教えに服することを許されるならば、領主は神社仏閣や、それに所属せる土地や山林を、みな失うようになるだろうと言った。なぜかと言えば、神の教えは、彼らの教えとは正反対であるし、領民が信者になると古来から祖師に捧げられていた尊敬が、消失するからだという。こうして遂に僧たちは、領主の説得に成功し、その領内において、キリストに帰依する者は、死罪に処すという規定を作らせた。また領主は、その通りに、誰も信者になってはならぬと命令した。」
この後、九州各地の大名は争ってキリスト教を受け入れることになるが、貴久は彼らと何が違っていたのだろうか?戦国の世に生きる九州各地の大名にとって、ポルトガル人との貿易は、高い収益が得られる上に、高級な中国産品や新しく伝わった鉄砲発射に必要な鉛や硝石を入手できるために、大いに魅力的だった。しかし、薩摩には坊津(ぼうのつ)という良港があり、明や琉球との貿易が盛んであったから、ポルトガル人との交易にこだわる必要性が小さかったのだろう。
ザビエルの平戸行きはポルトガル船の入港と深い関係がある。1550年、ポルトガル船が平戸に初めて入港した。この船の船長ミランダは、1541年にザビエルとともにインドへ渡航した人。貿易に熱心だった平戸領主の松浦隆信は、ポルトガル船を歓迎し、ポルトガル人が敬愛するザビエルに布教を許した。これが長崎における南蛮貿易とキリスト教布教の始まりである。平戸は世界地図に記され、海外に知られるようになった。
当時は平戸を窓口にして、ポルトガル・中国・日本という交易ルートができあがりつつあり、平戸は東シナ海の海上交通・交易の要所であった。ポルトガル船は最初、明の倭寇王直(おうちょく)配下の手引きで平戸に入港したとされる。王直は、密貿易を仲介して財を成し、ジャンク船の船主として東シナ海に勢力をふるっていた。1549年に五島の福江から平戸に移り、松浦隆信から邸を与えられ、南蛮貿易の橋渡し役を果たしたとされる。
ザビエルは平戸に2か月滞在して100人ほどを信者にしたという。だが、ザビエルは、山口を経て京都に向かう。京都へ行く目的は二つ。ひとつは、比叡山や京都五山など、宗教的なレベルが高く完成した体系を持っているところへ出かけて行って宗論をたたかわせること。もうひとつは、もっと大きな目的、天皇(後奈良天皇)に会って日本全国での宣教の許可を求めること。しかし、ふたつとも門前払いを食らう。しかも京都は、応仁の乱(1467年~77年)、天文法華の乱(1536年)と戦乱が続き、疫病、飢饉、大火、洪水などの災害に見舞われて荒廃しており、天皇の権力もなくなっていた。街角で布教しようとすると嘲笑されたり石を投げつけられ、とても布教できるような状態ではなかった。そのため、わずか11日滞在しただけで京都を去って平戸に戻り、さらに布教の拠点を設定するために山口に移る。
山口では、ザビエルは、大内義隆に改めて謁見して贈物を進呈し、布教許可を得ている。そして、山口を日本布教の拠点とすることに決める。義隆はザビエルを大いに歓迎し、住居兼教会として廃寺(大道寺)を与えている。ザビエルはこの寺で毎日1回の説教を行い、大勢の僧侶や尼、武士や庶民たちが来たそうだ。約二か月の宣教で洗礼を受けて信徒となった者は500人にものぼったといわれる。ザビエルは山口に数か月滞在した後、ポルトガル船が来着したとの情報を得て豊後国に向かう。
山口サビエル記念聖堂
フランシスコ・サビエルの来訪400年を記念して建築された聖堂
「大内義隆像」龍福寺蔵
平戸ザビエル記念教会
「王直像」平戸市 松浦資料博物館下
「松浦隆信」
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