「カトリック宗教改革」8 絵画(3)カラヴァッジョ「パウロの回心」

 ルターは聖像に比較的寛容だったが、カルヴァンは聖像に厳しい態度を示し、それらは信者の集まる教会にとって余分な装飾だと考えた。ドイツ、スイス、ネーデルラントなど、こうした考えが広がった新教国では、群集が教会や修道院をおそってその財宝や画像を破壊する「イコノクラスム」(聖像破壊運動)の嵐が吹き荒れ、とくに1566年にネーデルラントで起こった「イコノクラスム」では、中世からルネサンスにいたる貴重なフランドル絵画の多くが容赦なく破壊された。

 1年から開催されたトレント公会議で新たに定められた教会の方針は、何よりもプロテスタントの攻勢に対して、出来るだけ多くの信者を獲得するという目標に狙いを向けたものであった。明解な教義の解釈を打ち出し、新しい教理問答を制定し、ミサをはじめさまざまな典礼を解りやすい単純なものに改変したのも、いずれも難解な神学的論議を避けて、一般の人々にも容易に理解しやすい教えを説くためであった。教会はいわば大がかりな大衆化路線を基本方針とした。

 特に美術の分野で注目すべきことは、感覚的、享楽的なものを否定し、それゆえに聖像をも拒否した禁欲的なプロテスタンティスムとは逆に、教会が美術の持つ教化作用を認めて、それを大いに奨励したことである。1563年に公会議が終結する際に議決・公布された「聖人の取次ぎと崇敬、聖遺物、聖像に関する教令」では、信仰における聖画像の役割が確認された。聖像を用いた信仰を偶像崇拝とするプロテスタントの非難に対しては、「聖像のうちに神性または神の力があるかのごとく表敬すべからず。・・・聖像への表敬はそれにてあらわされた原型に向けられるべし」とし、聖画像が決して偶像ではないことを確認した。そして、教会の指導者たちは、絵画や彫刻の持つ宣伝媒体としての有効性を十分に認識し、それを積極的に利用しようとした。理屈や論理によってでなく、イメージの力によって人々を説得しようという戦略である。

 では、その戦略に基づいて求められ、制作された数多くの宗教美術作品にはどのような特色があるのか?ルドルフ・ウィットカウアーは、第一に「明快さ、単純さ、解り易さ」、第二に「写実的表現」(主題の現実的解釈)、第三に「情動への訴え」(感情への刺激)の三点を指摘している。これら三つの特色は、作品の主題についても、又その表現についても言えることである。まず作品の主題は、複雑な神学的論議を必要とするような主題は敬遠され、聖書や聖者伝のなかの印象深いエピソード、あるいはドラマティックな迫力に満ちた物語が選ばれた。しかもその表現は、写実的で感情に強く訴えるものでなければならなかった。写実的であるということは、表現された図像内容を解り易く人々に伝えるために当然必要なことだが、それと同時に、画面の登場人物を身近なものと感じさせ、見る人の共感を得るための有効な手段でもあった。

 このような特色を具えた絵画の典型例はローマのサンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂の礼拝堂の壁に描かれたカラヴァッジョの「聖パウロの回心」である。ミケランジェロをはじめ、通常の図像では落馬したパウロに向かって神が天から光を発し、群集がそれに驚きあわてるスペクタルであった。しかしカラヴァッジョの作品では、大きな馬の足元にパウロが目を閉じて倒れているのみで、キリストの姿はなく、右端の馬丁も何事もなかったように下を向いている。カラヴァッジョは、「宗教美術史上、もっとも革新的」(ロンギ)と評される、前例のない図像と主題解釈を示したのである。つまり、ここでは回心(改宗)の奇跡はひとりパウロの内面でのみ起こっており、周囲の人馬には与り知らぬ個人的な出来事に還元されているのである。神の声を聞いて回心したパウロのみが、両手を広げて、神を受け入れようとしている。画面には回心の奇蹟を表す要素は見られない。しかし、聖堂の高い窓から差す陽光が、画面を左上から横切って差し込み、倒れたパウロの両腕に受けとめられるのを見ると、観者は、絵の中の回心劇が現実に目の前で起こっているような気になる。このように、聖堂内の現実の光は画面の構成要素として取り込まれており、画中の空間は観者のいる現実の空間に接続して、観者を回心劇の目撃者に変容させるのである。

サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂チェラージ礼拝堂 正面祭壇画はアンニバーレ・カラッチ「聖母被昇天」、左はカラヴァッジョ「聖ペテロの殉教」

カラヴァッジョ「聖パウロの回心」サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂チェラージ礼拝堂

ミケランジェロ「聖パウロの回心」バチカン パオリーナ礼拝堂 部分

0コメント

  • 1000 / 1000