「カトリック宗教改革」7 絵画(2)「パウロの回心」

 キリスト教史上最大の宣教者であり、キリスト教が世界宗教に発展する上での最大の功労者はと言えば聖パウロ。多くの教会では、入口の左右に聖ペテロ(イエスの12使徒の筆頭)像とともに聖パウロ像が置かれている。パウロの人生はまさにドラマチック。宣教の途上で実に多くの苦難に遭遇している。しかし、彼の人生における最大のドラマはなんと言っても「回心」だろう。

 パウロ(回心前は「サウロ」と呼ばれていた)は熱心はファリサイ派ユダヤ教徒だった。

「(わたしは)律法に関してはファリサイ派の一員。熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については

非のうちどころのない者でした。」(フィリピの信徒への手紙3章5~6節)

 キリスト教徒に対する熱心な迫害者だった。

「使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。・・・ サウロ は家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。」(使徒言行録8章 1~3節)

 サウロはキリスト信者迫害のため、ダマスコに向かうことになる。以下「使徒言行録」9章1-20節。

「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。

 ところが、旅の途中、ダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか』と語りかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『私は、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが告げられる。』

同行していた人たちは、声は聞こえても、誰の姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。」

 サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。ところで、ダマスコにいた弟子のアナニヤは、幻の中で主から言われる。

「立って、『まっすぐ』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。彼は今祈っている。アナニアと言う人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」

しかし、アナニアは答える、サウロがどのような人物であるかを。

「主よ、私は、その男がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて縛り上げる権限を、祭司長から受けています。」

それに対して主は驚くべき言葉を言い放つ。

「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らの前に私の名を運ぶために、私が選んだ器である。私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、彼に知らせよう。」

 迫害者サウロを「神が選んだ器」としたのだ。アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置く。「目から鱗が落ちる」の語源となった話だ。

たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼(バプテスマ)を受け、食事をして元気を取り戻した。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、すぐ諸会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。

 これが、数ある回心物語の中でももっとも有名であり、多くの画家によって描かれた「パウロの回心」物語である。

サンピエトロ大聖堂前のペテロ像(左)とパウロ像(右)

パルミジャーノ「聖パウロの回心」1528年頃 ウィーン美術史美術館

ミケランジェロ「パウロの回心」1542年 バチカン パオリーナ礼拝堂

イッポリート・スカセッラ「パウロの回心」1595年頃 カピトリーニ美術館

ムリリョ「パウロの回心」1682年頃 プラド美術館

ピエトロ・ダ・コルトーナ1631年 「パウロの目を開くアナニヤ」

ジャン・レストゥー「パウロの目を開くアナニヤ」1719年 ルーヴル美術館

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