「渋沢栄一の見た19世紀後半のパリ」7 「パリの美化」②
第一期工事では、ブローニュの森も整備され、エトワールからそこに至る広大な大通りが「アンペラトリス大通り」として建設された。今日、「フォッシュ通り」(パリで最も幅が広い通り)として知られるあの広壮な並木道である。オスマンは幅員120メートルの大通りにさらに10メートルの歩道を両側につけて合計の幅員140メートルの道路にするよう命じた。そして、この贅の限りを尽くした大通りを、ウージェニー皇妃に捧げて、「アンペラトリス(皇后)大通り」と命名した。この通りは1854年に開通するとたちまち流行の通りとなった。贅を誇示したくてたまらぬ新興成金たちが、富を見せびらかすために豪華馬車で散策する定番の散歩道となる。
これら第一期工事の特徴は、窒息寸前の過密地域を取り壊して広い道を設ける一方、新鮮な空気の供給源としてブローニュの森を整備したことに尽きるが、工事はたんに幅広な道路をつくるだけでなく、全く新しい建物からなる街区を生み出した。そしてそこにはオスマンの意向による強い美学的な建築規制が働いていた。オスマンはたんに高さだけでなく、ファサードについても、街区の建設者がバルコニーや軒蛇腹などの線を揃えるように行政通達を発して、統一感を生み出すようにした。これによってパリは無秩序な再開発から救われたのである。
一方、こうして一新された美しく高級な建物には、第二帝政の経済発展で成金となった新興の中産階級が多く住むようになったが、彼らは前時代の貴族たちが行っていた富の衒示行動を真似て、新しい社交習慣を生み出していく。その舞台となった一つが、ブローニュの森であり、ロンシャン競馬場であるが、新しい街区に誕生したパリ市庁舎やルーヴル宮殿、それに各種の劇場、ホテルなどもまた、彼らが夜会や舞踏会、晩さん会などを開催するのに格好の場所を提供することになる。
こうして、オスマンのパリ改造は、たんに街を作り変えただけでなく、新しい階層を生み、新しい習慣行動を作り出したのである。
続く第二期工事の中心は東のシャトー・ドー(今日のレピュブリック)広場と西のエトワール広場という放射状の広場を繋げる道路を建設することにあった。第一期工事が、いわば病んだ患部の摘出手術であったとすれば、第二期工事は患者の身体を壮健にするための肉体改造にたとえることができる。すなわち、パリの東西に位置する二つの広場をより完全な形の放射状広場に改造することで、都市という肉体の隅々に新鮮な血液を送り出す心臓の機能を持たせ、いわば、循環器系の治療によって都市の健康を回復しようと考えたということができる。
特にエトワール広場は、改造後のパリの象徴となるような壮麗な広場にしようと考えたオスマンによって、直径は240メートルの巨大な広場から12本の大通りが放射状に放たれるという世界でも類を見ない「唯一の広場」に生まれ変わった。
「この十二本の大通りを持つ広場の《美しき調和》という栄光はまさにオスマンにこそ帰せられるべきものである。それはたしかに世界中のあらゆる首都のうちで最も成功した全体計画の一つなのである。パリに比類なき眺めを与えているこの十二本の枝を持つ星(エトワール)のアイディアとその実現という功績は オスマンのものとして認めてやる必要がある。」(アンリ・マレ『オスマン男爵とパリ改造』)
第二期工事にはこのほか、ヴァンセンヌの森の整備、バスティーユ広場とヴァンセンヌの森を結ぶドーメニル大通りの建設、ヨーロッパ広場の建設などがあったが、最も大がかりだったのはシテ島の改造である。というのも、これにより、パレ・ド・ジュスティスとノートル・ダム大聖堂の間にあったパリで一番古い街区が完全に姿を消し、商事裁判所、パリ警視庁、新オテル・デュ(パリ市立病院)などの巨大な公共建築が誕生した。今日、シテ島の貧民街があったあたりを歩くと、公共施設が立ち並んでいるばかりで、民家があるのは、オスマンが取り壊そうとしても果たせなかったノートル・ダム大聖堂の北側の一角とドフィーヌ広場に限られる。シテ島こそは、オスマン改造の徹底ぶりを知るための格好の見本と言える。
シャルル・ド・ゴール広場と凱旋門から見たフォッシュ大通り
アンペラトリス大通り 1853–70
アンペラトリス大通り 1862年
ジュゼッペ・デ・ニッティス「ボワ・ド・ブローニュ大通り」1873年
ブローニュの森側から見た「フォッシュ大通り」
凱旋門から見た「フォッシュ大通り」
シャルル・ド・ゴール広場
シテ島 1852
改造前と改造後のシテ島
改造前のシテ島の貧民街
改造前のシテ島の貧民街(シャルル・マルヴィル写真)
改造前のシテ島の貧民街(シャルル・マルヴィル写真)
改造前のシテ島の貧民街(シャルル・マルヴィル写真)
改造前のシテ島の貧民街(シャルル・マルヴィル写真)
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