「宗教改革の拡大」2 カルヴァン②「予定説」

 カルヴァンはルター誕生の26年後、1509年にフランスのピカルディ―地方ノワイヨンで生まれた。1533年ごろから宗教改革運動に参加し、身の危険から逃れるためフランス国内を転々とする。1534年、カトリックのミサを攻撃するビラが、フランソワ1世の寝室の扉をはじめ各地に貼り出されるという事件「檄文事件」が起きる。この出来事とそれに続くプロテスタントへの弾圧のため、カルヴァンはシュトラスブルクを経てバーゼルへ亡命。この地でカルヴァンは、フランスで迫害されているプロテスタントを擁護するため、『キリスト教綱要』を出版した(1536年3月)。この書物が、1541年にラテン語からフランス語に翻訳されると、一躍、改革派教義の体系的理論書となり、信者の手引書となった。

 ところで、ルター派教会が浸透した地域は、ルターの母国ドイツとスカンジナヴィア諸国にほぼ限られていた。これに対して、カルヴァン主義は、フランスのみならずイングランド、スコットランド、オランダ、さらにはアメリカへと、絶えず発展し続ける世界的宗教の地位を獲得した。すなわちカルヴァンは、今日もなお生き続ける「カルヴァン主義インターナショナル」を出現させたように思われる。その原因は何か?

 ルターとの比較でカルヴァン主義と特徴をみてみよう。ルターは、カトリックの「積善説」(宗教的救済をえたいと思うなら、人間は「善行」や「功徳」をたくさんつまなければならないとする考え方)に代わる救済観に到達した。人間を救うのは、人間の善行や功徳ではなく、「神の愛」。人間的弱さの自覚こそが神の憐れみを呼び覚まし、一方的に人間を義とする。救済の主体は人間の側ではなく神の側にある。こう考えるに至った。カルヴァンは、このようなルターの認識をさらに推し進めた。神が救済の主体であるなら、裁きの主体もまた神でなければならない。そしてその裁きの神は、必ずしも「良き者を天国へ定め、悪しき者を地獄に定める」とは限らない。つまり、善行や功徳を積んだとしても地獄に落ちる可能性はある。そして、誰が救われるかはあらかじめ決められていて、人間の生前の行いとは関係ない。このように救済への自由意志と救済を完全に切り離し、救済を完全に「神の予定」に帰せしめる「予定説」にカルヴァンは至った。

 そして人間は誰が「選ばれた者」かを知ることはできない、「選ばれた者」になる確実な方法もない。しかし選ばれるに値するほどの人間なら、敬虔な生活を送っているだろう。では、敬虔な生活とはどのような生活か?来るべき世界での予定を定めている神は、当然この世での人の生活も定めている。神がこの世に定めた職業生活を「召命」とみなし、それにはげむことこそが敬虔な生活であり、確実とは言えないが救済への道だとした。このようなカルヴァン派の信仰は西ヨーロッパの商工業者(中産階級)に支持されていった。そしてこの西ヨーロッパの商工業者の中から、近代社会を出現させる資本主義が生まれる。

 聖像に対する態度もルターとカルヴァンでは大きく異なる。ルターは柔軟で、聖像破壊論も偶像崇拝もともに退け、聖像も使い方をわきまえていれば有用でありうるとしたが、カルヴァンは、神の像を作ることはモーセの十戒に背く行為として激しく非難した。

「目に見える形のもとに神を思い描くという愚かしさに誰もがとりつかれ、木や石、金や銀など、いつかは朽ちずにはいない物質で人々が神の像をこしらえるようになってしまった。だからこそ、私たちは次の原則をしっかりわきまえていなくてはならない。それは、神が目に見える形で想像されるそのたびごとに、神の栄光は過誤と悪によって損なわれるということである。それゆえにこそ、神は律法の中で、御自身のみが神であることを告げられたすぐあと、どのような礼拝をよしとされ、あるいは拒絶されるかを教えるため、このように言われたのである「あなたは自分のためにいかなるものの形も彫像も造ってはならない」と。」

(カルヴァン『キリスト教綱要』1599年)

 また、カルヴァンは聖人や聖遺物への崇拝も厳しく批判した。神の尊厳を損なう偶像崇拝を、そこに見たからである。

1566年 アントウェルペンでの聖像破壊2

顔をそぎ落とされたユトレヒト教会の聖像

ティツィアーノ「カルヴァン」

「ジャン・カルヴァン」

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