「レオナルド・ダ・ヴィンチとミラノ公イル・モーロ」8「葛藤」
宮廷人として生きることがどれほど神経をすり減らす過酷なものだったかは、祝祭劇『天国(イル・パラディーソ)』の台本を書いた宮廷詩人ベルナルド・ベッリンチョーニをみるとよくわかる。彼はミラノの権力者イル・モーロの近くに侍(はべ)って、すべての醜い現実を目の当たりにしていた。イル・モーロを追従する彼の詩は、パトロンの現実の醜さを隠すための偽善の作文。それだけではない。イル・モーロの権力横領を正当化するため、若いミラノ公の無能を嘲笑し貶(おとし)めるような詩を書き、それを宮廷の内外に広めることもやった。それは重い負担となって彼にのしかかった。こんな自身の不眠症を嘆くソネットを残している。
「わたしは100時間のうち、せめて1時間でもゆっくりと眠りたい。
私は食欲がない。でも、絶食した後、君たちと同じように、水をがぶ飲みする。
わたしは本当はドイツ人のように、ブドウ酒をがぶ飲みして酔っ払いたい。
その後で、幼い子供のように揺りかごの中に入るんだ。
そして、天の神様と、聖人様と、幸運の女神様に願を掛けるが、
わたしを哀れんでくれるようなお方はひとりもいない。 」
これが、貧しい寄食者に過ぎない宮廷詩人の現実。そして、詩人の心は無残に分裂して、人間らしい心の統一と調和を失ってしまう。
「わたしは泣きながら笑い、嘆きながら楽しむ。
時おり、呼ぶ声もしないのに、私は返事をし、
臆病な卑怯者なのに、常に勇猛であり、
快活に生きながら、常に憂いに沈んでいる。
牢獄の中で、私は自由を謳歌しているのだ。
わたしは生きることを熱望しながら、生まれてきたことを後悔する。
このように、わたしは地獄の中で天国を楽しんでいるのだ。 」
どんなに豪華で優雅な「天国」のように見えても、ベッリンチョーニにとってミラノ宮廷は「地獄」だった。本質的に偽りで、不健全で、邪悪な「地獄」であり、その「牢獄」のなかで、強いられた「自由」を謳歌しなければならなかった。良心の呵責に苦しむ彼は、そこを離れたかった。元のパトロンのロレンツォ・ディ・メディチに、生まれ故郷のフィレンツェに戻りたいというソネットまで書き送ったが、ロレンツォは1492年に亡くなる。そして、その年にベッリンチョーニもあっけなくミラノで40年の生涯を閉じる。
では、同じミラノ宮廷に生きたレオナルドはどうだったか?人間的な葛藤で苦しむことはなかったのか?どうもなかったようなのだ。そうでなければ、イル・モーロの愛人の肖像画、スフォルツァ家の菩提寺の装飾(「最後の晩餐」画)、スフォルツァ家初代当主フランチェスコ記念騎馬像など宮廷から依頼された仕事に自分自身の問題意識、研究テーマを盛り込みながら取り組むことなどありえなかっただろう。フィレンツエで始めた解剖学研究を、絵画に必要である程度をはるかに超え、より精密で体系的なものに近づけたのも第一ミラノ時代のことだった。鳥の飛翔を心ゆくまでうっとりと見つめながら、人間の飛行の可能性について考えをめぐらしたのも、さらに飛行機械の模型を作るためのスケッチをかき、飛ばした場合に必要な力学上の計算をしたのもこの時代だった。なぜ、そんなことが可能だったのか?斎藤泰弘は『レオナルド・ダ・ヴィンチ ミラノ宮廷のエンターテイナー』の中でこう書いている。
「わたしはその一因として、レオナルドが特異な精神構造の持ち主だったことを挙げたいと思う。彼は人間の心に潜む《動物的》で野蛮な衝動も、《人間的》で高貴な衝動も、すべての感情のスイッチを切って、冷静に観察できるような人間だったようだ。おそらくはこのような現実世界との奇妙な乖離意識が、普通の人間にはない自由を恵み、彼を精神的な消耗から救っていたのではないか」
私自身は、レオナルドが「並外れたリアリストで、骨太な個人主義者」だったからだと思っているが。だからこそ、状況に流されることなく自身の問題意識と格闘し続けられた。その人間像は、やがて親交を持つマキャヴェリの『君主論』が描いた理想的君主像(チェーザレ・ボルジアなど)に近かったのではないかと考えている。
「最後の晩餐 頭部習作」 ピリポとユダ
「スフォルツァ騎馬像」作成のための馬の脚の研究
「最後の晩餐」人物画の研究
作者不詳「レオナルド・ダ・ヴィンチ」
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