「レオナルド・ダ・ヴィンチとミラノ公イル・モーロ」6「宮廷人レオナルド」①
レオナルド・ダ・ヴィンチは、時代や地域をはるかに終えて、人類全体の歴史の中でも他に例を見ないような驚くべき豊かな成果を、多様な領域において残してくれた。絵画、彫刻、建築の分野で傑出した想像力を示しただけではない。徹底した自然観察や実地の研究に基づく人体解剖図があり、自動点火器から攻城用戦車、さらには都市計画から河川改造計画に至るまでの各種の技術的、工学的発明や土木事業計画があり、そしてあの膨大な手稿がある。彼においては、芸術と科学は分かちがたく結びついている。科学は芸術表現のための必須の基礎であり、芸術は科学的探究の最良の手段であった。そして芸術においては透徹した理論家であると同時に卓越した実作者であり、科学においては基礎理論の探求に熱中すると同時に応用工学にも情熱を注いだ。今日の学問分類でいうなら、人文科学と自然科学のほとんど全領域にわたって、大きな足跡を残した。
しかし、以上のような「万能の天才」像は、ルネサンス人レオナルドの実像を一面的にしか表していない。宮廷人レオナルドは、芸術表現や科学的探究にだけその時間とエネルギーを費やしたわけではない。レオナルドが17年にわたって仕えたイル・モーロは、レオナルドに自由な芸術活動、科学的探究をさせてくれるパトロンなどではなかった。彼がレオナルドや多くの芸術家を召し抱えたのは、彼らをいわば統治の道具として、自分自身やその宮廷を賛美させたり、他に類のない逸品をつくらせたりして、他の宮廷と競い合うためである。このことは、当代切っての美術収集家マントヴァ侯妃イザベラ・デステがチェチーリア・ベルガミーニ(当時、チェチーリア・ガッレラーニは、ベルガミーニ伯爵と結婚していた)に、「白貂を抱く貴婦人」の評判を知って、その絵を借り受ける依頼の書簡を送ったことからもよくわかる。
「実は今日、ジョヴァンニ・ベッリーニの描いた何点かの美しい肖像画を見る機会があったのですが、そのとき、話が弾んでレオナルドのことに話題が及び、わたしは彼の作品と比べてみたいと思うようになりました。そこで、彼があなた様をモデルに肖像画を描いたことを思い出したわけなのです。この両者の作品を比べるという目的のためだけに、早馬を差し向けますので、この使いの者にあなた様の肖像画をお貸しいただくわけには参りませんでしょうか?」
「ルネサンスの華」と呼ばれたイザベラにここまで思わせるレオナルドを抱え、ミラノ宮廷の評判はいかに高かったことか。宮廷人レオナルドに与えられた役割は、ミラノ宮廷の名を高からしめること、日常的には宮廷に集う人々を楽しませることだったと言っていい。そのためには、話術に長けていることは極めて重要。ヴァザーリは、レオナルドの会話が楽しいものだったことを強調しているが、レオナルドは冗談が大好きだった。手稿のあちこちに冗談を書きとめている。
「ある画家が、生きてもいない人物像をこんなに美しく描けるのに、どうして彼がつくった現実の子どもはこれほど醜いのか、と尋ねられた。画家は答えた――絵は昼間に描くが、子どもは夜つくるからさ、と。
かなりきわどい冗談も残している。
「ひとりの女が洗濯をしていたが、彼女の足は寒さによって真っ赤になっていた。通りがかったある司祭がこれを見て驚き、その赤さはどこからきたのかと尋ねた。女はすぐさま、自分の下に隠している火のせいです、と答えた。すると司祭は。彼を尼僧ではなく男の僧侶たらしめている部分に手をやり、それを女の前に差し出して、ではどうか私の蝋燭に火をともしてください、と丁重に頼んだ。」
手稿には、宮廷の余興として考案された「予言」(なぞなぞ)も数多く記されている。
「自分たちの母の皮を剥ぎ、そのを皮を裏返しにする多くの者が現れるであろう。」(答えは「土地を耕す者」)
「ヘロデ王の時代が回帰し、無垢の幼子たちが乳母の手から取り上げられ、残酷な者どもの手によって大きな傷を負わされ、死んでいくだろう。」(答えは「家畜の子ども」)
「情け容赦ない一撃によって、多くの子どもたちが母親の腕から奪い去られ、地面に投げ出されて砕け散るだろう。」(答えは「クルミやオリーヴの実」)
「レオナルド・ダ・ヴィンチ像」スカラ座広場 ミラノ
「レオナルド・ダ・ヴィンチ像」スカラ座広場 ミラノ
フランチェスコ・メルツィ「レオナルド・ダ・ヴィンチ」ロイヤル・コレクション
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