「レオナルド・ダ・ヴィンチとミラノ公イル・モーロ」5「イル・モーロ」④愛人(3)ベルナルディーナ・コッラーディス
2009年、美術界を震撼させるニュースが世界を駆け巡った。1998年1月のNYクリスティーズで、19世紀のドイツの無名画家がルネサンス期の手法で描いた絵という触れ込みで、たった1万9千ドル(170万円)で落札された無名の作品が、専門家の鑑定で時価130億円超のダ・ヴィンチの真作と鑑定されたのだ。ダ・ヴィンチ研究の世界的権威マーティン・ケンプ(オクスフォード大学名誉教授の美術史家)と最新のデジタル画像解析技術による作品の精査は、画面上に遺された「指紋」の照合(ダ・ヴィンチの未完の絵画「聖ヒエロニムス」に残っている指紋と「酷似した」指紋が作品から発見された)をふくめ、この「世紀の大発見」が真実だと結論づけた(マーティン・ケンプ、パスカル・コット『美しき姫君 発見されたダ・ヴィンチの真作』楡井浩一訳、草思社 2010年)。ただし、この作品「美しき姫君」が本当にレオナルド作なのかどうかは、世界的権威たちの間でも賛否の意見が分かれているが。
ところで、マーティン・ケンプは、この作品に描かれている女性はイル・モーロと愛妾ベルナルディーナ・デ・コラーディスとの娘ビアンカ・スフォルツァとした。ビアンカは1482年に生まれた婚外子だが、イル・モーロは自分の娘として認知すると同時に、1490年1月10日には自分の腹心の部下で、ミラノ公国の軍司令官ガレアッツォ・サンセヴェリーノと結婚させる。この時ビアンカわずか8歳。本当の意味で夫婦となるのは、1496年6月20日、イル・モーロがセヴェリーノに「床入り式」を許してからだが。しかし、そのわずか5か月後の11月23日、二人の幸せな新婚生活は突如幕を閉じる。ビアンカが、原因不明の苦しみに襲われて急死してしまったのだ。イル・モーロは娘を失った深い悲しみの中で、彼女の生みの親ベルナルディーナ・コッラーディスに宛てて自筆の手紙を書く。イル・モーロの人間性が窺える。
「お前にこのようなことを伝えなければならないのは、わが身を切られるように辛いことなのだが、わたしの娘で、本当にかわいくて仕方のなかったビアンカが、突然、亡くなってしまったのだよ。お前は彼女の母親だし、わたしが自分で手紙を書いて、お前にそのことを知らせないでは、あまりに情無しのように思われてね。これまでわたしは、他の不幸な出来事(注:二人の間に生まれた男子が少年期に死亡している)の場合でも、率直にお前に打ち明けてきたが、この出来事についてもそうしているということだけは、お前に知っておいてもらいたい。
昨日の3時(午後8時)、それまで元気だった彼女が急に苦しみだして、次第に症状が重くなり、不吉な兆候が表れて、ついに今朝の17時(午前10時)に身まかってしまった。この出来事はわたしにとって信じがたいほどの打撃だった。このようにかわいい娘を失って、しかも見たことも聞いたこともない病で亡くなったのだからね。
この出来事はお前にとっても心臓を一突きされるようなショックだと思う。だが、たとえそうだとしても、自然の流れは人の力では押しとどめることができないのだから、それに耐えるしかない。だから、どうかこの不幸な出来事にめげないでくれるように心から願っている。それに、たとえビアンカが亡くなっても、彼女が生きていたときとまったく同様に、今後ともお前への愛情が失われることはないのだからね。」
情愛が深くて、繊細で、きめ細かに相手を思いやるイル・モーロの人柄が伝わってくる手紙だ。ところで、現存するレオナルドに帰される唯一の未完の男性肖像画がミラノのアンブロジアーナ絵画館にある。「音楽家の肖像」と呼ばれる作品だ。以前はこの絵の下の部分が塗りつぶされて隠れていたが、1905年の修復で、楽譜の紙切れとそれを持つ右手が現れたため「音楽家の」と名付けられた。そしてモデルは、レオナルドと同時代のミラノ大聖堂楽士長フランキーノ・ガッフーリオとする説が有力だが、ビアンカ・スフォルツァの夫ガレアッツォ・サンセヴェリーノとする説もある。しかし、彼はミラノ公国の軍司令官だったのではないか?音楽家とはイメージが重ならないのではないか?そんなことはない。実は、彼はルネサンス時代を象徴する文化的英雄でもあったのだ。南イタリアの貴族の出身で、武術や馬術の達人で、ジョストラ(馬上槍試合)では無敵のチャンピオンだっただけでなく、音楽や美術の愛好家で、詩を作り、演技が上手で、舞踏の名手で、すぐれた歌手で、さらにフランス語とドイツ語を流暢に話す敏腕の外交官でもあった。まさにレオナルドと同じ「万能人」。だから、彼が楽譜を手に持っていても何の不思議もない。そしてガレアッツォ・サンセヴェリーノは、イル・モーロと並んでレオナルドの重要なパトロンでもあった。
マーティン・ケンプ、パスカル・コット『美しき姫君 発見されたダ・ヴィンチの真作』楡井浩一訳、草思社 2010年
レオナルド・ダ・ヴィンチ「美しき姫君(ビアンカ・サンセヴェリーノ)」個人蔵
頭の後ろで束ねた髪の毛を、「トリンツァーレ」と呼ばれるリボンでぐるぐる巻きにして、下に長く垂らす、典型的なスペイン風の髪型
レオナルド・ダ・ヴィンチ「聖ヒエロニムス」ヴァチカン美術館
レオナルド・ダ・ヴィンチ「音楽家の肖像」アンブロジアーナ絵画館
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