「マルティン・ルターと宗教改革」12 「ルターの神学思想」
①「信仰義認」
「義認」とは何か?それは、罪人(「罪」とは、神の意思に背こうとすること)である人間が、神に義(ただ)しいと認められて(判定されて)救われる(天国へ行ける)こと、つまり「救済」。そして、この救いは、まったくの神からの贈り物、まさに神の恵み(恩寵)なのである。では、どうすれば、神の救いが得られるのか?「信仰」である。神の恵みを受けとめることである。人が神を信仰したそのご褒美に恵みが与えられるのではなく、むしろ逆に神が恵みを与えてくださるがゆえに人は感謝をもって受けとめることができる、つまり信じることができる。そしてルターは、人間のそうした神の恵みを信じる力さえ、実は神の恵みである、と言っている。
確かにルターは「信仰のみ」を強調した。しかし、それはカトリック教会の教えに対するアンチテーゼとして言ったという事情がある。当時、カトリック教会は、人が救われるのは「信仰と善行」による、と人々に教えていた。「信仰」はもちろんのことだが、道徳的なよき行為、つまり「善行」も必要である(「行為義認」)、と教えていた。そして、免罪符の購入もそうした善行の一つだった。だから人々は免罪符を購入したのだ。それに対してルターは「信仰のみ」と反論したのである。
では、ルターの神学がよく「十字架の神学」と呼ばれるのはなぜか?「十字架」とはもちろんイエス・キリストがゴルゴダの丘で十字架刑に処せられたあの出来事のことだが、キリスト教ではこれを人間にとって決定的な出来事と理解している。パウロの言葉。
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(『新約聖書』「ローマの信徒への手紙」3章 23~25節)
イエス・キリストが人間の罪を犠牲的に背負い、その結果人間の罪が赦された、としているが、十字架の重視はルターの専売特許ではない。では、なぜことさらルターの神学を特別に「十字架の神学」と言うのか?
キリストの十字架は、中世においては、目を背けたくなる忌むべき象徴であった。無残に刑死したイエスの姿は、みじめで弱々しく、みすぼらしいただの人間の男を想起させるだけで、そこには奇跡も栄光も何もない、と思われた。ルターは、そのイメージを180度逆転させた。神々しく栄光に満ち溢れたイエス・キリストは、人間が罪の中でイメージしたものにすぎない。神が真に人間に示して見せる恵みとは、イエス・キリストの受難と十字架である。この無残なキリストの姿こそが、神が人間に与える「義(正しさ)」であり、人間はその「義」を受け入れることでのみ救われる。このようなルターの捉え方が「十字架の神学」と呼ばれるのだ。
②聖書主義
「神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。」(『旧約聖書』「創世記」1章 3節)
聖書によれば、「神の言葉」が世界を造った。そして「神の言葉」とは、つまるところ「神の心」。その「神の心」が「人の言葉」で書き記されたもの、それが「聖書」。それゆえ聖書には何ものにも代えがたい重み・権威があるとルターは考えた。「聖書の権威」が「信仰義認」(「信仰のみ」)とともに宗教改革の二大原理と言われる所以である。そして、「信仰のみ」に対して「聖書のみ」と表現されてきた。
この標語も、聖書以外の書物や思想を無視して聖書だけに真理が宿っているという排他的な考えとは異なる。ルターが「聖書のみ」を強調したのは、「聖書と伝統」というカトリックの教えに対抗してのことである。カトリック教会も聖書を一番大切にしていたが、それを正しく解釈しうるのは代々の教会(教皇や公会議)の解釈の積み重ね、つまり伝統である、という意味で「聖書と伝統」が大事であると主張していた。しかしルターは伝統にも間違いがあることを指摘し。最も大切なことは「神の心」、つまり「神の言葉」が一人ひとりの心に届くことであると考え、「聖書のみ」と強調したのである。
ルーカス・クラナッハ「『十字架の神学』を説くルター」 部分
サンタ・マリア教会 ヴィッテンベルク
マンテーニャ「キリストの磔刑」
ベラスケス「キリストの磔刑」
ルーベンス「キリスト降架」聖母大聖堂、アントウェルペン
ルター訳聖書(1534年)
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