「マルティン・ルターと宗教改革」6 「贖宥状事件」

 「塔の体験」によって自らの信仰的・思想的基盤を確立したルターは、現実の教会、また神学の動向に目を向け、そしてその問題点を激しく批判していくこととなる。いよいよローマ・カトリック教会との衝突が始まる。

 1517年10月31日、ルターは「95ヶ条の提題」を発表。普通、世界史の本あるいは歴史の本などには、この日にルターが「95ヶ条の提題」をヴィッテンベルク城教会(選帝侯の城に付属している教会)の扉(当時ヴィッテンベルク大学の掲示板として使用されていた)の扉に打ち付けたとされている。当時、ヴィッテンベルク大学では、金曜日ごとに神学者たちが会して神学の問題を討議する習慣があり、ルターは免罪符販売の悪弊と行きすぎを集会の席で討議したいと考えたのだ。

「以下の内容による神学討論を行いたい。討論の希望者は出席して、私と口頭で議論してほしい。出席できない人は、文書で見解を示してくださるよう、お願いする。この主題についての私の見解は以下のとおりである」(「95ヶ条の提題」前書き)

 そもそも、ルターが問題にした免罪符販売とはどのようなものだったのか?1514年初頭、マグデブルク大司教アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクが、マインツ大司教の座に立候補する。しかし、この地位を得るにはローマ教皇庁への多額の献納金が必要だったため、彼はアウグスブルクの大銀行家フッガー家を頼った。その結果、新しくマインツ大司教となったアルブレヒトに、ローマ教皇庁は免罪符(贖宥状)の販売(フッガー家がアルブレヒトに貸した金の倍額相当)を認可。こうして売上金の半分がサン・ピエトロ大聖堂の修築費に、残りの半分がアルブレヒトの懐に納まりフッガー家への返済が可能になった。

 その贖宥状の販売を委託されたのが、当代きっての民衆説教者として有名だったドミニコ会修道士ヨハン・テッツェルである。彼は、仰々しく教皇旗を掲げて町々を訪れ、鐘を鳴らして来訪を知らせ、巧みな弁舌で人々に説教し、贖宥状を売りさばいた。

「金貨が箱の中でチャリンと音を立てるや否や、煉獄で苦しむ者たちの魂はたちまち天国に召しあげられる。」

 大道商人さながらのテッツェルの売り文句は、教会の権威に恐怖する無学で善良な民衆には効果的だった。ルターは1516年の春、各地の修道院を歴訪している間にテッツェルの贖宥状販売を耳にする。そして1517年の「95ヶ条の提題」の発表になっていくのである。

 しかし、贖宥状販売を問うルターの提題に応ずるものは現れず、討論は実現を見なかった。それにもかかわらず、さらにはそもそもルターが扉に提題を打ち付けたのが事実かどうかも明らかでない(ルター自身そのことについて何ら言及しておらず、また同時代の人々の目撃証言に当たるものもない)にもかかわらず、1517年10月31日にルターが「95ヶ条の提題」を発表し宗教改革が開始された、とされるのはなぜか?それは、この日付でルターが「95ヶ条の提題」をマインツ大司教アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクに送り付けたからである。ルターは、贖宥状によって信者に偽りの平安を与えていること、および教皇庁の権限を煉獄にまで及ぼしていることを、皮肉や逆説を交えながら痛烈に非難した。たとえば、第5条では「教皇は、自身の裁量で課した罰を除いては、いかなる罰をも赦免することを欲してはならないし、できもしない」と、教皇の越権行為をあからさまに批判し、第49条では、教皇による贖宥は「それが神を畏れる心を失わせてしまうなら、この上なく有害なものである」と警告を発している。

 ルターの「95ヶ条の提題」はたちまち大きな反響を呼んだ。ルターの弟子や学生たちは「提題」を書き写し、また印刷して広めたので、各大学を中心に取り上げられた。贖宥状販売は緊急の問題として解決を待っていたものであり、ルターの「提題」が議論に火をつけた形になったのである。

贖宥状を買う行列(1530年頃)

贖宥状を売るドミニコ会修道士テッツェルに群がる民衆

ヨハン・テッツェル

ルーカス・クラナッハ「アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク」ヤークトシュロス・グリューネヴァルト

デューラー「ヤーコプ・フッガー」バイエルン州立絵画コレクション

フェルディナンド・ポーウェル「ヴィッテンベルク城教会の門に95ヶ条の論題を貼り出すマルティン・ルター」

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