「マルティン・ルターと宗教改革」4 「怒り裁く神」

 大学中退、修道院入りという人生の大転換が落雷との遭遇によってなされた、とされるが、この有名なエピソードは後になってルター自身が語ったもので、実際にその恐るべき落雷を見たものは誰もいなかったと言われる。ルターは、そのとき体験した感覚を落雷の話にたとえたということのようだ。いずれにせよ大事なことは、容易ならざる決断(前途有望のエリートコースの道を捨て修道士になること)をルターに促した要因は一体何だったのか、ということだろう。この点について、これまで多くの考察がなされてきた。学生時代、親友の死に接したこと、当時流行したペストによって彼の兄弟が命を奪われたこと、彼自身が帯剣で動脈を傷つけ出血多量で死の恐怖を味わったこと等々。つまりこの時期のルターには、人間の死について考える機会が多かった。おそらくそれ以前からルターは、父に服従し父の期待に応える生き方に疑問を感じていたであろう。父の敷いたレールから外れない範囲で、いかに生きるべきかを考え、悩んでいただろう。そしてその苦悩は、次々に遭遇した死の体験によって、それまでの生き方を根本的に転換させないではいられないほど強化されていったのだろう。それでも、父への「背信」を決意することはできなかった。「落雷体験」は、そんなルターに、俗世を捨てさせ、父からの自立を決断させる一撃となったのだろう。

 ルターが見習い修道士として飛び込んだのは、厳しい修練の世界。修道士は沈黙を守らねばならず、割り当てられた狭い個室の中で独り言さえ許されなかった。朝3時から夜9時まで1日7回『旧約聖書』の「詩編」を唱え祈り、聖書を暗記するほど読み込み、托鉢をし、質素な食事を1日に2回、また断食や徹夜の祈りを繰り返す沈黙と禁欲の日々。ルターはそれらを完全無欠、模範的に実行した。その努力が認められ、1年後には正式な修道士となる。

 しかし、やがてルターは思い悩むようになる。いくら告解(懺悔)をしても自分の罪が晴れないと感じたのである。些細なことにも罪の意識を強く抱き、「おお、私の罪、私の罪、私の罪」といって嘆いた。自分に対して、神は満足しておられない、いや怒っておられる、私は裁かれるに違いない。ルターの心には不安と混乱が渦巻いていた。そうした神の怒りを前にして、いかにして神の恵みを獲得することができるか(それができなければ地獄に落ちるしかない)。彼は一層信仰心を燃やし祈り断食を繰り返す。

「もし人間の行いによって人が義とされる、神様との正しい関係に入るということができるとするならば、私もその一人だ」

 それでも心の安らぎは得られない。修道士は、行為として犯した罪であれ心の中で犯した罪であれ、上司に懺悔告白しなければならないが、ルターは一日に何度も何度もそれを繰り返し、まるで神経病者のようになる。当時を振り返って晩年ルターは次のように書いている。

「しかし、いかに欠点のない修道士として生きていたにしても、私は神の前で全く不安な良心をもった罪人であると感じ、私の償いをもって神が満足されるという確信を持つことができなかった。だから、私は罪人を罰する義の神を愛さなかった。いや、憎んでさえいた。そして、瀆信というほどではないにしても、神に対して怒っていた。あわれな、永遠に失われた罪人を罪のゆえに、十戒によってあらゆる種類の災いで圧迫するだけでは神は満足なさらないのだろうか。神は福音をもって苦痛に苦痛を加え、福音によってその義と怒りをもって、私たちを更に脅したもうのだからと、そうつぶやいていたのである。私の心は激しく動き、良心は混乱していた」

 ルターは神を信じるどころか、内心、神を憎むようにすらなっていたのだ。「怒り裁く神」を前にした修道院でのルターの試練、この試練をルターはどのようにして突破したのか?それは「塔の体験」と呼ばれる出来事(神学の世界では「宗教改革的転回」とか「宗教改革的突破」と呼ばれる)。「使徒パウロのダマスコ途上での回心」(「使徒言行録」9章)、「アウグスティヌスのマニ教からの回心」(『告白』8巻12章)、「パスカルの火の体験」(『パンセ』断章556)とともに有名なキリスト教史における回心物語の一つである。

「マルティン・ルター記念碑」エアフルト 

乱闘で突き刺されて殺された友人の遺体にひざまずき嘆く学生ルター

ルターに、正式修道士にならないよう懇願する父ハンス

ルーカス・クラナッハ「修道士ルター」ヴィクトリア&アルバート博物館

カラヴァッジョ「パウロの回心」サンタ・マリア・デル・ポポロ教会

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