「マルティン・ルターと宗教改革」2 中世末期「不安の時代」
神への深い信仰は、中世末期の特徴だったが、それは当時のヨーロッパの社会状況にその根を持っている。1347年に大流行したペスト(黒死病)は、その後も周期的にヨーロッパを襲った。14世紀から15世紀の200年のうち、3分の1にあたる75年間がその流行期だった。ひとたびペストが流行すると、人々は何の治療法もなく死を待つのみだった。幼児の死亡率も高く、平均寿命はなんと25歳程度だったと言われている。また1453年にようやく「英仏百年戦争」が終わっても、1455年には「ばら戦争」が始まるなど、うち続く戦乱が社会に深刻な被害をもたらしていた。家族の離散、死体の山、伝統的な社会組織の崩壊・・・。そのような惨状を目の当たりにして、人々の心は大きく動揺し、死の問題を身近なものとして強く意識するようになったのである。
この時期、こうした人々の不安にこたえるべき教会もまた長く深刻な危機に陥っていた。「教会大分裂(大シスマ)」(1378年~1417年 ローマとアヴィニョンにそれぞれローマ教皇が立ち、カトリック教会が分裂)である。「教皇のバビロン捕囚」(1309年、ローマ教皇がフランス王の手でアヴィニヨンに移され、1377年までの68年間、教皇がローマを離れたこと)後,教皇はローマに戻りウルバヌス6世が選出されたが,1378年アヴィニョンにも教皇(クレメンス7世)が立てられ,ドイツ・イギリスなどはローマの教皇を,フランス・スコットランド・ポルトガルなどはアヴィニョンの教皇をそれぞれ支持。ピサ公会議(1409)以後には3人の教皇が対立,コンスタンツ公会議(1417)でようやく再統一が行われたが、この混乱の時期を経て、教皇庁の権威は失墜した。それを物語るように、イギリスではジョン・ウィクリフ、ボヘミアではヤン・フスといった異端が相次いで現れる。一方、公会議に出席した司教たちも、教皇の政治的野心や中央集権主義を激しく批判し、公会議の決定は教皇権に優越すると主張するようになる。
中世の末期(14~15世紀)、それは一口で言えば「不安の時代」だった。
「15世紀という時代におけるほど、人々の心に死の思想が重くのしかかり、強烈な印象を与え続けた時代はなかった。『死を想え(メメント・モリ)』の叫びが、生のあらゆる局面に、とぎれることなくひびきわたっていた」(ホイジンガ『中世の秋』)
生者と死者が交互に踊りながら行列している「死の舞踏(ダンス・マカブル)」。当時、このテーマの版画、彫刻、絵画がさかんに描かれた。死が身近にあった、いや人々がいかに死に脅えていたかがよくわかる。中世末期は、このように死が正面に出てきた時代だった。中世の半ばごろから、個人という自覚がより強く出てくるにしたがって、死が「自分の死」として強く意識されるようになり、人々は臨終に際して天国に行けるようにと司祭から祈りの油を塗ってもらう「終油」の儀式を決定的に大事な時として考えるようになった。
「病人の枕元に親せきや友人が集まる・・・が彼らは居ないも同然なのだ。死にゆく者は彼らを見るのをやめ、周囲の者には想像もつかぬ光景にすっかり心を奪われる。天国と地獄が部屋の中に降りてくるのだ。片やキリストと聖母と聖者全員が、片や悪魔が、時として善行と悪行とが記載された会計簿を持って降りてくるのである。」(フィリップ・アリエス『死と歴史』)
天国に行けるのか、地獄に落ちるのか、はたまたしばしの苦しみが待っている煉獄(神により罪をゆるされ義とされたが,その罪の償いをまだ終っていない死者の霊魂が死後至福の状態に導かれるまで,残された償いを果すためにおかれると信じられる苦しみの状態)で止め置かれるのか。史上初のベストセラーと言われる木版画入りの小冊子『アルス・モリエンディ(死の技術、往生術)』と呼ばれる書物群が14世紀以降、広く流布していたが、そこにはいかに臨終を迎えたらよいのかが絵入りで説明されている。
人々が抱いていた深刻な不安、これこそ人々を免罪符の購入に走らせた理由だった。そして、それは免罪符を批判したルターも例外ではなかった。あるルター学者は「死の思想が、ルター神学の中心に立っている」(C.シュタンゲ)と語っている。
フェルディナンド・ポーウェル「ヴィッテンベルク城教会の門に95ヶ条の論題を貼り出すマルティン・ルター」
ブリューゲル「死の勝利」プラド美術館 部分
「アルス・モリエンディ(往生術)」虚栄の誘惑
「アルス・モリエンディ(往生術)」虚栄に対する勝利
「アルス・モリエンディ(往生術)」欲望による誘惑
「アルス・モリエンディ(往生術)」欲望に対する勝利
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