「日本の夏」6 鮎①容姿端麗

 「初夏の使者」、「清流の女王」と呼ばれる鮎。清流に身を躍らせて太陽にその銀鱗を反射させる若アユの姿は実に美しい。非常にひよわなさかなのように思われているが、その実、俎上にのせて頭をはねても、ぽんぽん躍り上がるほど元気溌剌たる魚だ。アユの語源は、秋の産卵期に川を下ることから「アユル」(落ちるの意)に由来するとの説や神前に供える食物であるというところから「饗(あえ)」に由来するとの説など諸説ある。漢字でも、「鮎」以外に、独特の香気をもつことから「香魚」、一年で一生を終えることから「年魚」とも表記される。では「鮎」という字が魚偏に「占」と書くのはなぜか?これも諸説ある。神功皇后が肥前国松浦川で鮎を釣って戦勝の兆(しるし)としたという説話によるとする説、アユが一定の縄張りを独占する=「占める」ところからつけられた字であるとする説など。祇園祭の山鉾「占出山(うらでやま)」は別名「鮎釣山(あゆつりやま)」。前説にもとづいている。御神体(人形)は金の烏帽子(えぼし)に太刀をはき、右手に釣竿、左手に釣り上げた鮎を持って立つ。

 鮎の魅力はもちろんその容姿の美しさだけではない。食べて美味しい。「子持ち鮎」、「落ち鮎」もいいが、鮎の美味しさをダイレクトに楽しむならコケを十分に食べ、「瓜の香り」とも表現される良い香りを持つようになった6月から7月にかけての若鮎。最近では、和食だけでなくイタリアン、フレンチでも、フリット、コンフィ、テリーヌなど様々なスタイルで楽しむことができる。魯山人なら何と評するだろう。

「食べるにははらわたを抜かないで、塩焼きにし、蓼酢によるのが一番味が完全で、しかも、香気を失わないでよい。醤油をつけて照り焼きなどにすれば、醤油の香りや味醂に邪魔され、その天稟の香気は、たちまち滅してしまう。また、そのはらわたを抜いてしまったのでは、鮎そのものの味覚価値は語るまでもないことになってしまう。・・・なお、ついでだから言うが、岐阜のような鮎どころでは、客の顔をみると、待ってましたとばかり、その鮎を塩焼き、魚田、照り焼き、煮びたし、雑炊、フライと、無闇に料理の建前を変えて、鮎びたりにさす悪風がある。これは知恵のない話であって、慎むべきことだ。ことに新鮮な鮎をフライに揚げるなどは、愚の骨頂と言うべきだ。」(北大路魯山人「鮎を食う」)

 江戸の鮎と言えば相模川の鮎も有名だったが、何といっても多摩川の鮎。形といい、味といい、他の比ではなく、将軍家にも献上された。ところが鮎は腐りが早いのが難点。そこで鮎を納める器にも一工夫された。鮎を納める籠は舟形をした「鮎籠」。その底に熊笹を敷いて鮎を並べ、その上に熊笹をかぶせ、また鮎を並べる。熊笹には殺菌力があると考えられていたから、こうして傷むのを防ごうとしたのだ。そしてこの薄い鮎籠を前後に二十四枚ずつよくしなる細みの天秤棒に振り分けにしてかつぐ。鮮度の落ちないように、夜明け前には、内藤新宿の鮎問屋「蔦屋」まで運ばなければならなない。およそ10里(約40キロ)の道のりを夜通し走りに走った。体力、脚力が勝負のこの仕事。「鮎かつぎ」といいもちろん駄賃は高かった。金離れはよく、いなせというわけで、新宿をはじめ宿々の女郎にえらくもてたそうだ。もらった駄賃は、その帰りにはすっかり使い果たしてしまい、すってんてんになって帰っていくのを誇ったほどだった。

 ところで、魯山人は多摩川の鮎にも手厳しい。

「鮎は水が清くて、流れの急な、比較的川幅の広い川で育ったのでないと、発育が充分でなく、その上、味も香気も、ともによくない。」(北大路魯山人「鮎を食う」)

「東京であゆをうまく食うなどというのは断念した方がよい。多摩川にもいることはいるが、川が適しないためか、さっぱりだめだ。かつて多摩川のあゆでうまいのを口にしたことがない。あゆのよしあしは気候や川の瀬が大いに関係する。日光の大谷川あたりのはちょっとうまいが、これとてもその場で食わなければだめだ。東京へ持って来たので台なしで自慢にはならない。わたしは東京でうまいあゆを食う欲望を昔から捨てている。」(北大路魯山人「鮎の名所」)

 そこまで食べ比べたことがないからなんとも評しかねるが、個人的には穏やかな酸味、わたの苦味、油脂のバランスがとれた鮎料理こそ、鮎の魅力を引き立てると思っているのだが。

大野麦風「鮎」

水野柳人「香魚」

  水野柳人(明治29年~昭和38年)は、鮎の姿を究めることに力を注ぎ「鮎の画人」「鮎の柳人」とも呼ばれた郡上の郷土画家

円山応挙「鮎図」 夏と秋の鮎

広重「名所雪月花 多摩川秋の月あゆ猟の図」

祇園祭 山鉾「占出山」

祇園祭 山鉾「占出山」

月岡芳年   新羅征伐を前に釣り占いをする神功皇后と武内宿祢  

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