「日本の夏」4 花火①平和のシンボル
「みんなが爆弾なんかつくらないできれいな花火ばかりをつくっていたら
きっと戦争なんか起きなかったんだな」
これは、ドラマ「裸の大将放浪記」で有名な画家山下清が長岡の花火を見て呟いた感想。彼は全国の花火大会に訪れ、記憶した花火の光景、情景を作品化(代表作「長岡の花火」)した。
花火は平和な時代の到来とともに生まれた。どういうことか?花火に欠かせない黒色火薬は、中国で発明されたと考えられている。当初は軍事用の烽火(のろし)に使われる程度だったが13世紀頃から火器にも利用されるようになる。元寇のときにモンゴル軍の使っていた「てつはう」(鉄や陶器の容器に火薬を詰め込み、導火線で火をつけて相手に投げつける大型の手榴弾のようなもの)が、日本人がはじめて遭遇した火薬。しかし日本人が本格的に火薬を受容することになるのは、それから270年後の1543年、ポルトガル船が鉄砲とともにもたらした火薬との出会いから。江戸時代初期までは、火薬は重要な戦略物資だったので、市中に出回ることはあまりなかった。平和な時代になり、少しずつそれが出回るようになると、まず線香花火のような小型の花火が作られたようだ。「手牡丹」という美しい名を付けられ、線香花火はずいぶん古い時代から庶民に愛好されていたようだ。
記録に残っている花火(打ち上げ花火)の第一号は、慶長18年(1613)年8月6日、駿府(静岡)の家康のもとに国王ジェームズ一世の国書を携えてきたイギリス人ジョン・セーリスが披露した御前花火。これは今のような色鮮やかなものではなく、筒に黒色火薬をつめて点火し、噴出する火の粉の様を鑑賞したものだろうと言われている。万治2(1659)年、大和の篠原村から弥兵衛という男が、葦の管に火薬をつめた花火を売りに江戸に出てきて、これが大いに当たる。この弥兵衛が後の「鍵屋」。彼はその後も大型花火の実験を繰り返し、享保2(1717)年には水神祭りの夜に献上花火を打ち上げ、今日の川開き花火の先鞭をつけた。しかし瓦屋根の少ない江戸の町では、花火が原因の火災もたびたび起きたので、幾度も花火禁令が出された。それで打ち上げ場所が両国隅田川の大川端に指定され、業者も鍵屋と鍵屋から分家した玉屋などの13軒に限られた。最初にこの両国の大花火が打ち上げられたのは享保18(1733)年5月28日、川開きの日。享保16年は旱ばつによって米は不作。翌享保17年は、イナゴの大量発生で西日本は大飢饉。江戸ではコレラが流行して多数の死者を出した。そのため、両国の料理茶屋が幕府に願い出て、「川施餓鬼」(「施餓鬼[せがき]」とは、死者の霊に飲食物を施すこと)を行い、慰霊のために花火を打ち上げた。以降、隅田川の川開きに花火が定着したのである。
花火は、仕込みに手間がかかり冬の間から取りかかって時間をかけて作られる。当然高価になる。一発の相場は一両。一両が一瞬のうちに消えるさまを松尾芭蕉の弟子其角はこう詠んでいる。
「壱両が花火間もなき光かな」
だから花火のスポンサーになるには、相当な金が必要だったが、「残るものにはお金をかけず、消えてしまうものにはお金をかける」のが江戸っ子の心意気。こんな狂歌もある。
「ここに来て金はおしまじ両国の 橋のつめには火をともせとも」
(「橋の詰(つめ)」と「「爪(つめ)に火をともす」をかけている」)
一瞬の光の美しさにお金をつぎ込む江戸っ子の精神は、実利主義一点張りの上方の人々には理解できなかった。実際、淀川や鴨川で花火が打ち上げられたのは、明治も中期以降のことだった。
ところで、江戸時代の花火は、今の花火と比較すると極めて地味。色は、金色、オレンジ色、赤色しかなかった。上がり方も、派手な大輪を描く花火ではなく、シュルシュルと放物線を描いて落ちていく「流星」という花火が主流。花火が円形に開くのは明治7(1874)年以降、色が多様になるのは明治20(1887)年以降になってからのことである。
山下清「長岡の花火」
山下清「京都清水寺の花火」
山下清「諏訪湖の花火」
竹久夢二「花火」
加藤栄三「流離の灯」山種美術館 長良川の情景
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