「感染症と人間の物語」25 江戸のはやり病(6)幕末日本とコレラ

 嘉永7年(1854)、日米和親条約の締結により日本最初の開港地となったのが下田。安政3年(1856)には、アメリカ総領事としてタウンゼント・ハリスが下田を来航する。ハリス来任の目的は通商条約の締結。しかし、徳川幕府はあくまでも通商条約を嫌い、ハリスの再三の江戸出府、幕府要人との交渉要求を拒否。しかし、そうしている間、隣の中国では英仏両国との間で「第二次アヘン戦争」(「アロー戦争」1856年~60年)が勃発。安政4年(1857)には米砲艦ポーツマス号が下田に入港し、ついにハリスの江戸出府を認めることとなる。ハリスは、老中・堀田正睦(まさよし)らの要人と会談し、支那(中国)における欧米列強、英国の香港総督ボーリング卿の「武力による日本開国」の公言など、巧みに日本の危機を説き、「アメリカとの通商条約の締結が先例となり、各国もこれにならうこととなる、万一の場合はアメリカが仲介の労をとる」旨等を説く。幕府は内外の情勢の変化を見て、条約締結やむなしの方針のもとに条約交渉に入り、安政5年(1858)1月、交渉は妥結。しかし勅許が得られず、調印は延引を重ねる。そこへ6月13日、米艦ミシシッピ号が下田に入港し、英仏両国が日本に進攻するとの情報を伝える。ハリスは即刻幕府に決断を迫り、大老・井伊直弼は最後の決断をなし、6月19日「日米修好通商条約」が調印される。

 ところで、このミシシッピ号、安政5年5月21日に長崎に入港しその後下田に向かうのだが、ミシシッピ号があとにした長崎では大変な悪疫がはやりはじめていた。病人は、突然、はげしい嘔吐と下痢の胃腸症状を発症し、米のとぎ汁のようなうすい水様便を大量にくだすのだ。そして、みるみるうちに手足はしわくちゃになり、目はくぼみ、体がひからび、ついには手足をけいれんさせて1日2日のうちに死んでしまう。コレラである。幕府に招請されて長崎で医学伝習をしていた、オランダ海軍の軍医ポンペは次のような内容の報告書を長崎奉行にあてて書いている。

「安政5年6月3日には長崎出島、市内ともに吐瀉病が多発している。既に6月2日だけで20~30人の患者が発生しており、また米国蒸気船ミシシッピー号においても同様の胃腸病が多発しているので、これは流行性のものと考えられる。この病気は清国の海岸都市でも流行し、毎日多数の死者があると聞いている。長崎出島にいるヨーロッパ人はこの下痢症が変症して真性コレラにならないように努めている」

 8月中旬の流行終焉時までに、人口6万人の長崎で1583人が発症し、767人が死亡(死亡率48%)。悪疫は長崎だけにとどまらず、大阪や江戸にもおよぶ。流行り病のスピードは速く(一日に千里を走るとされた虎のイメージをもって受け止められた)、また発症してあっという間にころりと死んでしまうので、「コロリ」(虎狼痢)ともよばれた。江戸の死者数は約10万人とも、28万人や30万人に上ったとも記録が残り、浮世絵師・歌川広重も命を落とした。

 安政のコレラは2、3年続いていったんは収束したが、文久2(1862)年には再燃。ふたたび死者数万人の大流行。さらに、同じ年には麻疹も大流行。またまた長崎から上方、江戸にもおよび、多数の死者がこれでも出ている。黒船による開国は、疫病に加えて、為替取り決めの失敗から国内の金が流出してインフレをもたらしてもいた。その結果、人々は外国人にネガティヴな印象をもつようになり、心情的には攘夷に染まっていく。出島にいたオランダからの医学伝習医ポンペは、のちに次のように回想している。

「1858年7月(陽暦)に米艦ミシシッピー号が清国から日本にコレラを持ち込んだ。1822年以来、日本ではこの恐るべき疾病についてはまったく聞くところがなかったが、今回はたくさんの犠牲者が出た。市民はこのような病気に見舞われてまったく意気消沈した。彼らは、この原因は日本を外国に開放したからだといって、市民のわれわれ外国人に対する考えは変わり、ときには、はなはだわれわれを敵視するようにさえなった」

 反幕府勢力の攘夷のプロパガンダに、諸藩も民衆もうなずくようになり、幕府の権威は日に日に落ちていった。その背景に開国によるインフレ等の社会の混乱があったが、そこには感染症の流行も含まれていた。

木村竹堂「虎列刺退治 虎列刺の奇薬」明治19年(1886)

 人々を押さえつけている虎(頭)、狼(胴体)、狸(睾丸)の合体した怪獣に、衛生隊が消毒薬の石炭酸を噴射している

「流行悪疫退さんの図」明治13年(1880) 

 頭はライオン、胴体が虎の怪獣に見立てたコレラに消毒薬の石炭酸を噴霧している

『安政箇労痢流行記』荼毘室(やきば)混雑の図 

 コレラ大流行で亡くなる人が続出し、江戸の火葬場は大混乱となった

『安政箇労痢流行記』

焼き場に続く道を棺桶を担いだ大勢の人々が歩いている。棺桶が足りず酒樽を棺桶がわりにしたとも言われる。

「加藤清正の手形」

 虎退治の加藤清正の手形のこの絵を門中に貼っておけば、悪疫にかかるのを防ぎ、疫病におかされても、死を免れるとされた

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