「感染症と人間の物語」23 江戸のはやり病(4)麻疹①藤原道長の盛衰

 「見目定めの病」と呼ばれたのが天然痘(疱瘡)ならば、「命定めの病」と呼ばれたのが麻疹(はしか、ましん)。天然痘より死亡率が高く、かつては生まれた子供のうち半分が育てばよいとされていた。「七歳までは神の子」「七つまでは神のうち」と言われたが、幼児の生死は神様が握っていて、ヒトの努力が関与できる部分ではないとされた。昭和初期でも、乳幼児の高い死亡のために、三歳になってから出生届を出している地域もあった。麻疹は、乳幼児の死亡の重要な原因のひとつだったのである。

「麻疹」は中国由来の語で、発疹の形や色が麻の実のように見えるところから来ている。では「はしか」の語源は?麻疹になると、のどや皮膚がチクチク、ヒリヒリした感じになるが、それが麦の穂先でこすった感じと同じである。それを関西弁では、「はしかい」と言い、これに由来するようだ。いずれにせよ、「麻疹」や「はしか」と言われるようになったのは江戸時代以降であり、それ以前は天然痘を「もがさ」と言うのに対して「赤もがさ」と呼ばれていた。『栄花物語』(40巻からなる平安時代後期の歴史物語)にこんな一節がある。

「あかもがさといふもの出で来て上中下分かず病みののしる」

 これは、日本で間違いないとされている第1回目の麻疹の流行についての記述。998年のことである。この時代は、藤原道長の絶頂期である。道長と言えば有名な和歌がある。

「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」

(この世界は、まるで私のためのものであるように思う。満月に欠ける部分がないように、私は完全に満ち足りているから。)

この有名な歌、藤原道長が盤石な権力を手に入れ、得意の絶頂で詠んだ歌として伝わっている。道長は、長女の彰子(しょうし)・次女の妍子(けんし)・四女の威子(いし)を入内(じゅだい 天皇陛下【一条天皇、三条天皇、後一条天皇】に嫁がせること)させて「一家三后」(いっかさんごう 一つの家から三人の皇后陛下を出すこと)を達成したが、彼の栄華盛衰は感染症と深くかかわっている。

 道長は、父藤原兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり道隆、道兼という有力な兄がいたためさほど目立たない存在だった。ところが権力者の兄二人の関白が995年、相次いで天然痘で亡くなってしまう。そして後継者の地位をめぐって,兄道隆の息子伊周と激しく争い勝利し,内覧(摂政,関白に準ずる職)となる。さらに、ひと月後に右大臣・氏長者、翌2年には左大臣となって政界の頂点に立ち,以後持ち前の政治力を発揮して政界を牛耳った。天皇の外戚(母方の親類)となって摂政・関白を独占し、政治の実権を握った政治形態は「摂関政治」と呼ばれ、藤原道長・頼通親子の時代がその全盛期だった。

 しかし、道長衰退のきっかけを作ったのも感染症、こちらは麻疹だった。「一家三后」を達成した後、道長は六女の嬉子を後の後朱雀天皇となる敦良親王に入内させた。1025年8月3日、皇子親仁(後冷泉天皇)を出産するが、出産直前に罹った麻疹でわずか2日後に死去(18歳)してしまう。成人麻疹が重症化しやすい上に、妊娠で免疫力が低下していたからであると考えられる。この1025年の流行は、確実とされる麻疹流行の第2回目であった。

 入内した道長一族の娘たち(4人)の中で、この嬉子の産んだ後冷泉天皇が結果的に最後の皇子となり、その後冷泉天皇にも世継ぎができなかったため、彼女の死は摂関家道長一族の斜陽の始まりであったといえる。道長は彼女の臨終の床に添い寝し、遺体から離れると悲しみと落胆のあまり自らも寝込んでしまったという。この後冷泉天皇の死亡(1068年)後、摂関家とのつながりが無い71代後三条天皇、72代白河天皇へとつながり、白河上皇が院政を始めて(1086年)、摂関政治は終焉することになる。

 ちなみに、道長の時代は紫式部の時代。紫式部は「源氏物語」の評判を聞いた藤原道長に召し出されて、一条天皇の中宮であり藤原道長の娘でもある中宮彰子(藤原彰子)に仕えている間に「源氏物語」を完成させた。また後冷泉天皇の乳母は、紫式部の娘大弐三位(だいにのさんみ)であった。

『紫式部日記絵巻』 紫式部が道長から和歌を作るように命じられた場面

菊池容斎『前賢故実』「藤原道長」

鳥居清長「紫式部」紫式部が源氏物語を起筆した石山寺

三代目広重「近江八景全図 石山」

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