「感染症と人間の物語」21 江戸のはやり病(2)天然痘(疱瘡)②疱瘡絵

 天然痘(疱瘡)にかかると高熱が出て皮膚に発疹ができ、失明の危険性もあり(伊達政宗が右目の視力を失い「独眼竜」になった原因については、天然痘によるものであるという点で医史学者の意見は一致している。天然痘は、眼にできれば失明する。種痘の普及する江戸末期まで、日本人の失明原因としては最多のものだった。)死亡率の高い病気だった。発疹はやがて膿を持ち、かさぶたとなってはがれおちる。治癒しても顔に“あばた”が残ることから「器量定めの病」「見目定めの病」ともいわれ、特に小さな子どもたちにとっては将来を左右するだけでなく命取りになる大きな試練であり、軽く済むように人は祈った。

 その切実な願いは各地に伝わる郷土玩具から知ることができる。疱瘡除けのお守りとして「赤物」と呼ばれる、赤で彩色された人形や玩具などが全国各地で大量に作られた(「赤べこ」、「だるま」、「赤みみずく」など)が、それが赤色なのはなぜか?日本では疱瘡に罹るのは、「疱瘡神」に取り憑かれることによるものだと信じられてきた。疱瘡に罹ると発疹が出てからだが赤くなるため、疱瘡神は赤いものだと連想され、また赤い色を好むと想像されていた。そこでからだが赤く、赤色が好きな疱瘡神の気を惹くように、子どもの玩具を赤くしておくと、子どもには取り憑かないと考えたようである。また別の説もある。赤色は太古から魔除けの色として信じられ、疱瘡罹病時に身体に出る発疹が赤色だと軽症、黒色だと重症と言われていた。

「病児には赤き衣類を着せ、看病人もみな赤い衣類を着るべし、痘の色は赤きを好とする故なるべし」

(香月牛山『小児必用養育草』寛政10年【1798】)

そのため、罹患しても病状が軽くあってほしいとの願いから赤色が好んで用いられた、という。

また、江戸時代に流行した疱瘡の魔除けとして、疱瘡に対する呪色の赤色で摺られた浮世絵があり、これらは総称して「疱瘡絵」または「赤絵」と呼ばれていた。かなり特殊な浮世絵で、疱瘡(天然痘)にかかった病人への見舞い品として贈られたり、病人の部屋に貼られるという用途に限って用いられた。画題としては、失明しないように目が丸く大きな「みみずく」、倒れてもすぐに起き上がる「達磨」、病状が軽く済むように「張り子の犬」「でんでん太鼓」「風車」、その強さにあやかろうと「鎮西八郎為朝」「鍾馗」「金太郎」「桃太郎」などがあてられている。回復後は焼き捨てたり、川に流したため、現存するものは少ない。

 ところで鎮西八郎為朝が、疱瘡絵に登場する最も代表的な人物となったのはなぜか?源為朝は、身の丈2mを超える巨躯の持ち主で、5人がかりでも引くことができない弓をひとりで軽々と引くほどの怪力を備えていたと言われている。鎌倉幕府を開いた源頼朝の叔父にあたり、実の兄源義朝と敵味方に分かれて戦った1156年(保元元年)の「保元の乱」では敗北するものの、島流しにされた先の伊豆で勢力を広げ、伊豆諸島を支配下に置くなど、勇猛さを見せ付けた。この配流先の伊豆で、源為朝が疱瘡神を退治する物語が曲亭馬琴の小説「鎮説弓張月」(ちんせつゆみはりづき 保元の乱に敗れた源為朝が漂泊を重ねたのち琉球に渡り,危機に立つ王女を助けて賊軍を平定し,一子が国王に推挙される話)に登場。そこから、源為朝は疱瘡除けの守護者との信仰が生まれたのだ。鎮西八郎為朝の疱瘡絵には、源為朝の強さで疱瘡を退けてもらいたいという願いが込められていると考えられている。

 「疱瘡神」という考え方もいかにも日本的だ。日本には悪鬼をやみくもに撃退するのではなく、もてなすことで、穏便に立ち去ってもらう風習があり、「疱瘡神送り」もそのひとつ。また、今年4月28日、鹿児島県薩摩川内市では、100年ぶりに疫病退散を祈る「入来疱瘡踊り」が奉納された。「めでたい、めでたい」などのかけ声が特徴的で、疫病の神様を「打ち払う」のではなく、「歓待して、満足して去ってもらう」という意味があるという。鍾馗や鎮西八郎為朝に退治される疱瘡神もどこか滑稽で悲壮感はまるで感じられない。医療関係者が差別されるなどというニュースを耳にすると、科学、医学が発達した現代人はかつて日本人が有していた大切な心性を失ってしまったように思われるのだが。

三代目広重「名画の鍾馗」

国貞「中村芝翫九変化ノ内(鍾馗と青鬼)」鍾馗が天然痘の鬼(青鬼)を退治している

国芳「金太郎」

月岡芳年「新形三十六怪撰 為朝の武威痘鬼神を退く図」

月岡芳年「芳年武者无類 鎮西八郎為朝」

志水軒朱蘭『疱瘡心得草』より「疱瘡神祭る図」

竹翁雲舟庵等周「疱瘡神図」 全く恐ろしそうに見えない

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