「エリザベス1世の統治術」3 エリザベス女王誕生③忠臣ウィリアム・セシル
亡きメアリー女王の3日間の喪が明けた1558年11月20日、ハットフィールドに集まった高位貴族と政府高官は、大広間に集合した。彼らの前で、エリザベスはウィリアム・セシルを枢密院委員ならびに国務長官に任命した。国務長官の職務は国王の私的秘書のようなものだが、ヘンリー8世治下でトマス・クロムウェルが絶大な力をふるって以来、一気に重職となった。他国の君主、他国に駐在している大使宛の手紙の下書き・代筆、枢密院会議の議事録の作成のみならず、国王が枢密院に出席しなかった場合は、枢密院会議の議事を国王に報告する仕事が含まれ、さらに、外交、経済、宗教、諜報、通産、工業、商業などあらゆる分野で、君主の手足となり、統治の補佐をするようになる。
セシルを顧問の筆頭にすえたこの人事に驚いたものは誰もいなかった。ほとんどの者がこの人事を歓迎した。スペイン大使フェリア伯爵でさえ、遺憾にしてセシルは異端者(プロテスタント)だと言いながらも、彼が「賢明にして有徳の士」だと認めた。この時、ウィリアム・セシル38歳。有能にして勤勉、信頼ができ、政治的駆け引きがうまく、君主なり国家が要求するならどこまでも非常になれる現実主義者でもあった。
エリザベスとセシルは、知性の造りが同じだった。二人とも、ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジのもっとも輝かしい栄光の時代の落とし子。セシルは15歳で入学し、その学歴は群を抜くと思われていた(父親に反対された結婚によって退学したが)。エリザベスにとって最も重要な教師となるロジャー・アスカム(エリザベスの家庭教師を務めた人文学者。語学、哲学、天文学に造詣が深く、エリザベスに女王として必要な知識のすべてを教えた)はセシルの先輩にあたる。セシルもアスカムも偉大なる学長ジョン・チークから教えを受けている。そしてエリザベス同様、セシルも、生涯知的関心をもちつづけた。セシルは教養人だった。一般的に教養人や学者は、知性面では考え方がかたくるしく、人格面では不器用なことが多い。しかしセシルは宮廷や枢密院といった生き馬の目を抜く様な場にも十分適応できた。セシルは、自分は樫の木ではなく柳から生まれたのだと自負していた。またセシルはエリザベスと同じ保守派の体質を持っていた。確固たる社会秩序、それを維持する手段を何よりも重んじた。狂信的な宗教やイデオロギーに惑わされず、名誉よりも実利を重んじた。世の極端な動向に同調することなく、不動のプロテスタントの心情を守り続けることで、セシルは次第に、高い知見ばかりでなく健全な常識と誠実な士として声価を上げていった。
エリザベスは、大勢が見守るハットフィールド・ハウスの大広間で、セシルに任命の辞を述べた。その中に次のようなくだりがある。エリザベスの演説中、最も短く、そしてもっとも優れたものとも言われる。
「わたくしはあなたを、枢密院委員および国務長官に任命します。わたくしとこの国のために骨折ってください。あなたに関して、このように判断しています。あなたは、贈り物のために汚職にまみれることなく、国家に忠誠を尽くすと信じています。わたくしの意思に逆らってでも、国家のために最上と思う助言をするでしょう。わたくしが内密に知るべきことがあれば、わたくしにだけ知らせるでしょうし、わたくしもそれをわが胸に秘めることを約束します。」
この信頼は裏切られることはなかった。セシルはこの日から40年にわたって、エリザベスの並ぶもの亡き最側近として国政に腕を振るうことになる。セシルは女王に仕えるほどに、その政治感覚を信頼するようになり、口癖のようにこう言った。
「女王ほど賢い女性はいない。さまざまな国の言葉を話し、理解し、鋭い洞察力で貴族たちの人柄や領地をしっかり把握しておられる。とくに、国民とこの国についての知識は深く、諮問者たちの助言を必要としない。なんでもご存じであるからだ」
一方エリザベスはこう言ってセシルを自慢した。
「セシルほどの名宰相を持つ君主は、ヨーロッパのどこにもいないでしょう」
映画「エリザベス」(1998年 ケイト・ブランシェット主演)戴冠式
マークス・ヘラート「初代バーリー男爵ウィリアム・セシル」ナショナル・ポートレート・ギャラリー
映画「エリザベス」(1998年 ケイト・ブランシェット主演)ウィリアム・セシル
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