ジョゼフィーヌという生き方8 ナポレオンとの出会い
1795年秋のある日、タリアン夫人のサロン「藁ぶきの家」に、みすぼらしい格好をした背の低いやせた軍人がバラス(テルミドールのクーデターの首謀者の1人)に連れられてやってきた。この軍人がナポレオン・ボナパルトだった。1793年12月のトゥーロン奪回に功を立て、24歳にして将軍になったナポレオンがなぜこのようなみすぼらしい格好をしていたのか?理由は「テルミドールのクーデタ」(1794年7月27日)。タリアン夫人やジョゼフィーヌはテルミドールのクーデタで命拾いをしたが、ナポレオンはそのおかげでひどい目にあった。トゥーロン以後、ナポレオンはイタリア戦線で軍務についていたが、ここでクーデタの報に接し、1794年8月9日逮捕される。理由は彼がロベスピエール派とみなされたから。ナポレオンは、トゥーロン視察にやってきたロベスピエールの弟、オーギュスタン・ロベスピエールの庇護を受けていた。牢獄からは10日ほどで出ることができ、再びイタリアで任務に就いたが、政府から「ジャコバン派陰謀分子」「要注意人物」とみなされ、結局イタリアでの軍務をとかれパリに向かうことになる。この頃のナポレオンの暮らしは実にひどいものだった。予備役にまわされていたため新しい軍服は支給されず、服のあちこちが擦り切れていた。給料は半減したが、大勢の子どもを抱える母親に仕送りするため食事は一日一食。「藁ぶきの家」に姿を現したナポレオンが、陰で女性たちにクスクス笑われるような、ひどくみじめな格好をしていたのはこのような事情からだった。
こんなナポレオンを変えたのは、1795年10月5日に起こった「王党派の反乱」。テルミドールのクーデタ以後、フランス経済の悪化により民衆は困窮し、革命政府(テルミドール派)の人気は落ちる一方。このままでは次の選挙で王党派に多数を握られる恐れが出てきた。そこで国民公会(行政府も兼ねていた)は、「新議員の三分の二は前議員によって占められなければならない」という選挙規定を新憲法の中に盛り込む。王党派の蜂起は、この規定を不満として企てられたものだった。反乱鎮圧のために、バラスが国内軍司令官に任命されたが、本格的な戦闘で指揮を執るだけの自信はない。そこで、トゥーロン以来その軍事的才能に注目していたナポレオンを副司令官に登用し、実戦での指揮をすべてナポレオンにまかせる。ナポレオンは期待に応え、パリの街中で大砲を使用するという大胆な作戦で、王党派の反乱を一日で鎮圧してしまった。10月5日は共和歴で言うと「葡萄月」(ヴァンデミエール)の13日にあたっていたので、ナポレオンは「ヴァンデミエール将軍」とあだ名され、社交界でも一目置かれるようになった。
王党派の反乱が鎮圧された後、パリの人々に対し武装解除の命令が出され、一軒一軒の家から武器が回収された。この命令がナポレオンとジョゼフィーヌを結び付けることになる。ある日、ジョゼフィーヌの息子ウジェーヌが、共和国軍の将軍であった父親の剣の返却を求めて国内軍参謀本部を訪れる。「この剣は父の形見で、自分にはとても大切なものなのです」と涙ながらに訴えるウジェーヌ。その姿にナポレオンは心打たれ、剣を返してやる。翌日、ジョゼフィーヌは礼を言うため参謀本部を訪れる。その翌日、ナポレオンは答礼のためジョゼフィーヌの家を訪問。すっかりジョゼフィーヌの虜になったナポレオンはしげしげとジョゼフィーヌの家へ足を運ぶ。我を忘れてジョゼフィーヌに夢中になるナポレオン。ベッドを共にした翌朝、こんな手紙を書く。
「朝の7時に
僕は君への思いに満ちて目を覚ました。君の肖像画と心をとろけさせる昨夜の思い出が、僕の感覚にすこしの休息も許さないのだ。やさしく、比類なきジョゼフィーヌよ、あなたは僕の心になんという不思議な感銘を与えたことか!・・・ああ、昨夜、僕にははっきりとわかった。あなたの肖像画はあなたではないのだ、ということが。君は正午に外出する。三時間後に君に逢おう。それまでの間、わが愛しき人よ、千回のキスを受けてくれ。けれども、僕にはキスをよこさないでくれ。それは僕の血を燃え上がらせるから」
ここに「比類なきジョゼフィーヌ」と書かれているが、ジョゼフィーヌの正式なファーストネームは「マリー・ジョゼフ・ローズ」。親しい友人たちからは「ローズ」と呼ばれてきた。実は彼女を「ジョゼフィーヌ」と名付けたのはナポレオン。ナポレオンは、使い古された名前ではなく、自分のためだけの新しい名前が欲しかったのだ。呆れるほどのロマンチスト。
「王党派の反乱」 サントノレ通りのサン=ロック教会界隈
「王党派の反乱」 鎮圧を指揮するナポレオン
ポール・バラス
アンリ・フェリックス・エマニュエル・フィリッポトー「ナポレオン」
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