ジョゼフィーヌという生き方3 結婚①

 ジョゼフィーヌがマルチニック島を離れ、フランスにやってくるのは16歳の時。結婚のためだ。相手はナポレオンではない。当時ナポレオンはブリエンヌ軍学校に入りたての10歳の子ども。ジョゼフィーヌの結婚相手はアレクサンドル・ド・ボアルネ子爵、彼女より3歳年上の陸軍大尉。彼の父親ボアルネ侯爵は、以前、フランス領西インド諸島の総督をつとめていたことがあり、マルチニック島に住んでいた。アレクサンドルもこの島で生まれたが5歳で島を離れた。なぜボアルネ侯爵は、わざわざ息子の嫁をマルチニック島の貧しい下級貴族から迎えようとしたのか?実はこの結婚の仲介役を果たしたのはルノーダン夫人というジョゼフィーヌの叔母(父親の妹)。彼女は夫ルノーダンとはすでに別れ(当時は離婚制度がなかったので、夫と別れた後もルノーダン夫人と名のり続けなければならなかった)、ボアルネ侯爵の愛人だった。彼女が、侯爵の嫁として、自分の姪に白羽の矢を立てたのだ。

 それは姪の将来を思ってのことではない。自分自身の利益のためだ。ボアルネ侯爵の夫人はすでに夫のもとを去り、ルノーダン夫人は侯爵とパリで夫婦同然に暮らし、アレクサンドルを母親代わりに育てた。主婦として侯爵の信頼も得、アレクサンドルにも慕われた。しかしその立場はあくまで侯爵の愛人。侯爵が結婚を渋ったわけではない。侯爵夫人は、侯爵家を出て数年後に死亡。再婚できない事情はルノーダン夫人の側にあった。夫が生きている限り、離婚制度が存在しない以上、彼女はボアルネ侯爵夫人にはなれないのだ。彼女の立場は弱い。侯爵の愛情が失われたら?侯爵に万一のことがあったら?いつ追い出されるかわからない自分の不安定な地位を安泰にしたいと切望する。そこで考えたのが、アレクサンドルの嫁に自分の姪を迎え、姪がこの家に一緒に暮らすようにすること。すっかりルノーダン夫人の尻に敷かれていた侯爵はこの話にあえて反対はしなかった。

 1779年10月、ジョゼフィーヌを乗せた船イル・ド・フランス号は、ブルターニュ半島の突端、ブレスト港に到着。ジョゼフィーヌは馬を飛ばして迎えに来たアレクサンドルと出会う。アレクサンドルは、すべての女性を虜にすると言われるほどの美貌の持ち主で、すらりと背が高く、ジョゼフィーヌには夢の中の王子様とも思われるほど素敵な男性だった。フランスの名門ル・プレシを卒業したアレクサンドルは、高名な家庭教師パトリコルについて学んだ後、ドイツのハイデルベルク大学に留学、フランスに戻って今度は、ラ・ロシュ・ギュイヨンに入学、ここを17歳で卒業してラ・ザール歩兵連隊に入隊していた。高学歴の軍人で、しかも流行の新思想、自由博愛主義に染まっており、会話も巧みだった。彼女は一目ぼれしたのも当然だろう。

 ではアレクサンドルのほうは?彼はジョゼフィーヌを一目見てがっかりする。当時19歳だったとはいえ、アレクサンドルはパリの上流社会の年上の女性とのアヴァンチュールの楽しみをすでに知っていた。そうしたアレクサンドルの目の前に現れたジョゼフィーヌは、いかにも文化に乏しい島に育った、垢抜けない小娘としか映らなかった。アレクサンドルにはラ・トゥッシュ夫人と言う11歳年上の愛人がおり、子どもまでもうけていた。彼は、親に勧められるままジョゼフィーヌと気のない結婚をしたに過ぎなかった。どうせいつかは結婚しなければならないのだし、結婚すれば一人前の人間として扱われ、財産を自由にできるというメリットもあった。もともと、貴族の結婚は家名と財産を守るためにするもので、愛情などはじめから問題にならない。

 ジョゼフィーヌの教養のなさもアレクサンドルをいらだたせた。歴史も地理も何も知らない。スペリングも間違いだらけ。アレクサンドルは、ジョゼフィーヌを由緒あるボアルネ家にふさわしい嫁にしようと、文学書を与え、歴史を教え、哲学を語り、芸術に触れさせ、日夜努力を重ねる。しかし成果はあがらない。ジョゼフィーヌは頭のいい女性だったが、学識で光るようにはできていなかった。彼女の頭のよさは勉強ができるという形で現れるのではなく、いつの間にか自然に人の心をつかんでしまうという形で現れるのである。しかし、いつまでもじっと机に向かっていられない彼女は、アレクサンドルの目には、自分を磨いて貴族夫人としてふさわしい教養を身につけようという意思もなければ、努力もしようとしない向上心に欠ける女性としか映らない。アレクサンドルはジョゼフィーヌに絶望する。


フランソワ・ジェラール「皇后ジョゼフィーヌ」エルミタージュ美術館

ジョルジュ・ルジェ「アレクサンドル・ド・ボアルネ」ヴェルサイユ宮殿

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