ジョゼフィーヌという生き方2 「クレオール」
「徹底したフランス女だった」と言われたジョゼフィーヌだが、カリブ海の西インド諸島のひとつマルチニック島生まれの「クレオール」(Creole 植民地生まれの白人)。フランス本土の人間からすれば、ジョゼフィーヌはコルシカ島(ナポレオンが生まれる1年3か月前にジェノヴァ共和国からフランスに割譲)出身のナポレオンと同様に「異邦人」だった。ジョゼフィーヌの実家タシェ・ド・ラ・パジュリ家はもともとフランスの貴族で、祖父の代にマルチニック島へ渡る。祖父は軍に勤めていたがうまくいかず、一獲千金を夢見て島に渡ってきた。しかし、夢は実現せず、島で亡くなる(母方もフランス貴族の出で、父方よりも以前に島に移住)。父親の代になっても祖父の夢は実現せず、小さなサトウキビ畑の収益で生活する貧しい小貴族だった。その貧しさは、タシェ家の住まいを見れば一目瞭然。ある年の暴風雨で家屋がほぼ全壊し、農場がめちゃくちゃになって以来、一家が住み着いたのは老朽化し荒れ果てた製糖工場。父ジョセフ・ガスパールの財産と言えば、この住み心地の悪い家と、数十アールのサトウキビ畑と、20人程度の奴隷だけだった。しかもこのささやかな財産も、いつも借金取りに狙われていた。
しかし、このような陰気で気の滅入るような家で生活しながら、父親は酒と女に明け暮れ、気ままな生活。母親も多くのクレオールの例にもれず、なにもせず、化粧、昼寝、水浴に時間を費やしていた。家事どころか、三人の娘の世話もしようとせず、子育てはジョゼフィーヌのいいなりになる甘い乳母にまかせっきり。そんな育てられ方をしたジョゼフィーヌは、自分の好悪のままに動くくったくのない野生児そのもの、強烈な陽光を浴びてすくすく育つ生命力あふれる草木のようだった。
「遊び友だちと言えば、主人の娘である彼女を何かにつけてたてまつる、原住民の女の子たちだった。・・・彼女たちとの接触により、よくないことを教わり、猥談を耳にし、これにクレオールに特有の早熟な性質が加味され、性的なものに対する感覚が彼女の中でいち早く目醒めていった。そして、彼女の周囲にあるすべてのもの、気候、暑い夜、水浴、繁茂する木々、強い草いきれ・・・・等々が、彼女の性的感覚を競って呼び醒ましたのである。
ごく幼いころから、ジョゼフィーヌはおしゃれだった。長い時間鏡を手に過ごしたり、水浴を終わり水から上がると、澄んだ水に身をかがめてはその姿を映すのだった。どうすればその幼い肉体で優美な線が出せるかしなを作ってみたり、ポーズをとってみたり、花や木の葉で身を飾りたてたりするのだった。黒人の遊び仲間の子どもたちが、青い目、ブロンドの髪、白い肌の彼女にうっとりみとれているのを感じると、彼女はなんともいえぬ楽しい気分になるのだった。彼女は気の赴くままにぶらぶらしたり、ハンモックに寝転んで夢想にふけったり、様々な色の羽毛で身をおおった鳥が優雅に空を舞うのを目で追ったり、素晴らしい景色にうっとり眺め入ったりするのが好きだった。」(ジャック・ジャンサン『ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネとその時代』)
それでも両親は、彼女が10歳近くになると初等教育を受けさせるためにプロヴィダンス修道院に入れる。その教育方針は、音楽やダンスが多少できるようになること、優雅な礼儀作法を身につけること、つまり社交界で通用し、幸せな結婚ができるように娘たちを育て上げることだった。ジョゼフィーヌはまじめに勉強することはなかったようで、それは彼女が書いた誤字だらけの手紙からわかる。それでも、修道院に入った頃はほんの小娘にすぎなかった彼女は、4年後令嬢となって実家に戻る。まだ14歳だったが、はやくもマルチニック社交界では目立つ存在になりかけていた。当時のジョゼフィーヌについて、マルチニック駐屯オクセロワ連隊の将校だったモンガイヤール伯爵がこんな証言を残している。
「彼女はたいへんな魅力を生まれながらに授かっていた。ラ・パジェリ嬢(ジョゼフィーヌ)はとりたてて美人というわけでもなく、また可憐というわけでもなかったが、人の目を惹く魅力を備えていた。表情には抗いがたい魅力があった。まなざしには艶があり、なんともいえない色香が漂っていた。それは、男心をくすぐり、とろかし、官能の疼きを呼び醒ますあのまなざしだった。体つきはニンフのそれだ。身のこなし、物腰、声の調子、そして黙っているときにまでみられる、あのクレオールに特有の、ざっくばらんな溌溂としたしなやかさが、彼女の全身からかんじとれた」
マルチニック島
マルチニック島
マルチニック島
アンドレア・アッピアーニ「ジョゼフィーヌ」マルメゾン城
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