「オペラ『フィガロの結婚』の誕生」7 プラハの反応

 初演以降、ウィーンでの《フィガロの結婚》は不思議なくらい上演回数が伸びていない。一応の成功を収めたとは言えようが、その頃から、ウィーンの貴族たちはモーツアルトという音楽家に背を向け始める。モーツァルトは、ウィーンでの行き詰まりを予感して現状打開を図ろうとしたのか、《フィガロ》初演の年の11月、妻同伴のロンドンへの演奏旅行を計画する。ザルツブルクの父に手紙を書き、3歳になる次男と、10月に生まれたばかりのレオポルトを預かってもらえないかと頼む。父レオポルトから娘ナンナルへの手紙(1786年11月17日付)にこうある。

「今日は、お前の弟からの手紙に返事を書かなければならなかった。それが、長々と書く羽目になったので、お前にはほんの少ししか書けない。・・・非常にきっぱりとした手紙を書かなければならなかったことは、お前には察しがつくだろう。ほかでもない、あれの二人の子供を預かってほしいと申し入れてきたのだ。謝肉祭の途中からドイツを通ってイギリスへ旅をしたいためだなどと言う。」

 父レオポルトの拒絶で、結局ロンドン行は実現しなかった。その頃のモーツァルトには、大旅行をするほどの経済的余裕もなくなっていたのだろう。しかしそんなモーツァルトを喜ばせる報告がプラハから届く。12月にプラハで初演された《フィガロの結婚》が空前の大当たりとなったのだ。1787年1月8日、モーツァルトと妻コンスタンツェはプラハの音楽愛好家の団体の招待に応じて、胸弾む思いでプラハに向けて旅立った。プラハでの様子は、友人のゴットフリート・フォン・ジャカンへのモーツァルトの手紙(1月15日付)によって知ることができる。

「到着するとさっそく(11日木曜日の正午)、することが山ほどあって、1時の食事までにすませるのに、てんてこまいだった。食後、トゥーン老伯爵(注:プラハにおけるモーツァルトの後援者)が、そのお抱えの楽員の演奏する音楽でもてなしてくれ、それが1時間半近くもつづいた。こういう本当の楽しみが毎日味わえるのだ。6時にカナール伯爵(注:モーツァルトと同じくフリーメーソンに属し、楽団を抱えていた)と一緒にプライトフェルト(注:地元の大学教授)の舞踏会へ出かけて行ったが、そこにはいつもプラハの粒よりの美人が集まる。・・・ぼくは踊りもせず、女に媚びもしなかった。踊らないのは、疲れすぎていたからだし、女に媚びないのは、生まれつき内気だからだ。しかし、その人たちがみんなぼくの『フィガロ』の音楽を・・・心から楽しそうに跳ねまわっているのを見て、すっかり嬉しくなってしまった。じっさいここでは『フィガロ』の話でもちきりで、弾くのも、吹くのも、歌や口笛も、『フィガロ』ばっかり、『フィガロ』の他はだれもオペラを観に行かず、開けても暮れても『フィガロ』『フィガロ』だ。たしかに、ぼくにとっては大いに名誉だ。」

 1か月足らずのプラハ滞在中、モーツアルトは《フィガロ》の上演に立ち会ったり、自ら指揮をするなどして、当地の聴衆から熱狂的に迎えられた。劇場で催された演奏会では、新作の『交響曲第38番 ニ長調 K504』、通称『プラハ』も演奏された。モーツァルトはステージでピアノに向かい、華麗な即興演奏を30分以上にわたって披露した。嵐のような拍手。彼がステージから挨拶をすると、1階席の平土間から声がかかった。

「《フィガロ》から何か弾いてくれ!」

 彼は頷いてピアノに戻り、通名なアリア〈もう飛べないぞ、恋の蝶々〉をテーマに、12曲の変奏曲を即興演奏して聴衆の熱狂にこたえた。この演奏会で、彼は1000フローリン(約700万円)の収入を得たと言われる。人々の温かいもてなし、多額の報酬、それになによりも、熱心に耳を傾けてくれる聴衆。モーツァルトにとってこれほど好ましい街があったろうか。夢と希望の日々は、プラハでなおも続く。劇場支配人パスカーレ・ボンディーニから、次のシーズンの新作オペラの注文を受けたのだ。こうして、ダ・ポンテとモーツァルトのコンビでなくては絶対に生み出すことのできない人間ドラマ《オペラ ドン・ジョヴァンニ》作りがスタートする。

2016ウィーン国立歌劇場日本公演「フィガロの結婚」

「ロレンツォ・ダ・ポンテ」コロンビア大学図書館 1820年ごろ

映画「プラハのモーツァルト 誘惑のマスカレード」

  ストーリー自体は史実とは大きく異なるが当時の雰囲気の一端は伝わってくる

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