「サン・バルテルミーの虐殺」10 コリニーの暴走
1572年8月18日、新旧両派の和解のシンボルとしてアンリ・ド・ナバル(後のアンリ4世)と国王シャルル9世の妹マルグリットとの結婚式がノートル・ダム大聖堂で挙行された。しかし、アンリはプロテスタント、マルゴはカトリック。そのため実に奇妙な形式の結婚式だった。アンリは祝福のミサには出席せず、聖堂に入ったのは新婦のみ。その間、新郎は外で待機していた(イザベル・アジャーニ主演の映画「王妃マルゴ」ではアンリも一緒にミサを受けているが史実ではない)。また、ブルボン枢機卿が結婚の同意をマルグリットに求めた際に彼女は沈黙して同意の言葉を発さず(彼女が愛していたのはギーズ公アンリ)、立腹したシャルル9世が彼女のうなじを抑えて強引に同意の印とさせた。
挙式後の数日間、盛大な祝祭行事が行われたが、この間に「サン・バルテルミーの虐殺」は起きる。この事件を理解するカギはコリニー提督。彼は1569年国家に対する反逆罪で死刑を宣告され、その首に賞金を懸けられ、刺客からつけねらわれた戦争犯罪人。その彼が、1570年8月の「サン・ジェルマンの和議」にもとずいて同年9月11日、宮廷に復帰。1週間と経たないうちに若き国王シャルル9世の心を完全に捕らえてしまった。国王は情愛の限りを込めてコリニーのことを「モン・ペール(我が父)」と呼んだ。たちまちのうちにコリニーは、宮廷内で絶対的な権力を占めるようになった。そして恐るべき計画をたてる。シャルル9世をそそのかし、フランドルで支配者のスペインに対して反乱を起こしているプロテスタントの「乞食団」を支援してスペインと戦争を起こし、フランドルをフランスの領土にすること。オランダ新教徒の反乱を指揮するナッサウ伯ルイと弟のオランジュ伯ウィリアムは、フランスが兵を貸すならその見返りとしてフランドルとアルトワを提供しようと申し出る。ユグノーの小隊が次々と国境を越えてフランドルの戦場に駆けつける。ユグノーの名将ラ・ヌーと組んだナッサウ伯はやすやすとヴァランシエンヌ(フランス国境の町)を征服して、1572年5月24日、モンスに攻め入る。しかし、すぐにヴァランシエンヌは取り返され、勢いを盛り返したスペイン軍によって反乱軍はモンスに立て籠もることを余儀なくされた。
6月26日、モンスで包囲されたフランドルの反乱軍を助けるために兵を送るか否かについて、臨時議会が開かれる。コリニーに賛成する者はいない。しかし彼はシャルル9世の資金で4千の兵を反乱軍の救出に向かわせる。しかし、7月17日、スペイン軍に敗れ潰滅。スペインは宣戦布告の理由付けがあることをフランスに伝えてくる、開戦の際はイングランドもスペイン側につくと言ってきたことも添えて。カトリーヌはショックに打ちのめされる。まだ繁栄の途上にあったアンリ2世のフランスでさえやっとの思いで抵抗しえたスペインとイングランドが、手を組んでフランスに襲いかかろうとしていた。至急開かれた議会は満場一致で戦争を否決。しかしコリニーはカトリーヌにこう言い放つ。
「陛下は今日、大変な利益が期待できる戦争を避けようとしていられます。しかし陛下が避けようとしても避けられない別の戦争が起こらぬよう、神に祈られることですな」
戦争がないなら、その代わりに内戦を?このときカトリーヌも、その場に居合わせたものすべてもわかった。コリニーは、カトリーヌが高い代価を払ってやっと手に入れた平和を、その手で壊そうというのだ。彼女の頭の中に単純な方程式が浮かび上がる。新たな反乱を食い止めフランスが平和を保つには、コリニーを亡き者にすること。それは国家安寧のための措置。コリニーが引き起こそうとしている戦いがもし本当に起これば、おそらく何千何万という犠牲者が出、様々な地方が荒廃し、外敵の侵攻だけでなく、内戦すら勃発することだろう。そうした常軌を逸した政策は社会全体を傷つける。一方、コリニー殺害は一個人しか犠牲にしない。マキャヴェリも次のように合法的な殺人を規定した。
「あなたは厳しさの範をわずかに垂らすことによって、かえってあまりに多くの憐れみを与えているがゆえに混乱をのさばらせ、その結果として殺人や横領をはびこらせている連中よりも、情け深いことになるでしょう。というのも、そうした混乱は社会全体を傷つけるものであり、君主によって秩序立てられた厳しさは個々人をしか対象にしないからです」
シャルル9世がコリニーに傾倒している以上、訴訟を起こしても勝ち目はない。残された方法は刺客による暗殺。誰を選ぶか?
映画「王妃マルゴ」 結婚式の場面。実際にはアンリは聖堂の外にいた。
映画「王妃マルゴ」
聖バルテルミーの虐殺の悲惨さは伝わるが、カトリーヌ・ド・メディシスの描き方が一面的すぎる。
ヤン・ファン・ラーウェステイン「コリニー提督」
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