「サン・バルテルミーの虐殺」9 マルゴとアンリの結婚
ナヴァル王妃ジャンヌ・ダルブレが動く。16歳になる息子のナヴァル王子アンリ(後のアンリ4世)を連れて、プロテスタント陣営の拠点ラ・ロシェルに駆けつける。コンデ公ルイの死を機に、アンリを一気にユグノーの長に祭り上げようという魂胆だ。しかし、事実上ユグノーの長になったのはコリニー提督だった。こうして封臣が王族にとって代わり、ユグノーは次第に一つの閉鎖的で狂信的な党(セクト)にすぎないものになっていく。もはや重要なのはフランスではない。カトリック対ユグノー、セクト対セクト。どちらかのセクトの絶滅、解決は今やそれしかなくなる。
1569年6月、マンスフェルド率いるドイツ軍がリムーザンでユグノーに合流し、国王軍とユグノー軍の実兵力はほとんど差がなくなった。国王軍の方はその数3万、一部をドイツ、スペイン、イタリアの兵で編成され、ユグノー軍は総数2万5千、その半数をドイツ兵が占めていた。ドイツ騎兵対ドイツ傭兵、このフランスの地を外国兵が我が物顔に荒々しい軍靴の音をさせて戦っていた。国土を荒らし、行く先々で略奪と虐殺の限りをつくしながら。カトリーヌが何をおいても避けようとしたことが、現に目の前で起こっているのだ。カトリーヌのユグノーに対する怒りはこれまでになく激しかった。彼女の徹底した強硬策が始まる。彼女のさしがねでパリ最高法院はコリニーに死刑を宣告。そして1569年9月13日、刑が執行される。ただし、被告は不在なので、刑は彼に似せて作られた藁人形をもって行われた。紋章は砕かれてどぶ川に捨てられ、全財産が没収された。
しかし、カトリーヌが冷静さを失ったわけではない。この当時の彼女について、ヴェネツィア大使コッレロがこんな記録を残している。
「私は別に彼女が、女予言者だとか、決して誤りを犯さない女だとか言っているのではありません。時折彼女が、あまりに自分自身の勘に頼りすぎることも認めましょう。しかしいかに賢明で勇敢であったとしても、どこの王侯がこのような戦いの最中にあって冷静さを失わないでいられるでしょうか?友と敵の区別さえつかず、誰もかれも利己主義で、忠実ともいえない人々に仕えられることを余儀なくされて・・・。
私は彼女が少しも動揺していないこと、二つの党のどちらの言うなりにもならないことに、しばしば驚かされます。もしそんなことにでもなったら、この王国にとって最大の災難だったことでしょうから。この宮廷の中に、王としての威厳の残り香をわずかに保持しているのは彼女です。」
9月30日、モンコントゥールでアンジュ―公アンリ率いる王国軍は、第二の大勝利を獲得する。しかしその勝利を利用することを知らなかったために、ユグノー軍は形勢を立て直し、パリに攻め上ろうとする。この形勢の逆転が、カトリーヌに和平交渉を急がせた。1570年8月、「サン・ジェルマンの和議」によって第三次ユグノー戦争の幕は下りた。8月8日に公布された和平勅令は、フランス全土に信仰の自由を認めた。これは、信仰の自由を正式の法律とし、1562年の「一月勅令」を再確認するものだった。グレーヴ広場で絞首刑に処されていたコリニー初めユグノー首長たちの人形が、早々に絞首台から降ろされた。
しかし、これで両者の和解がなったなどともちろんカトリーヌは考えない。彼女が次に打とうとした手はナヴァル王子アンリと王妹マルグリットの結婚。しかしカトリック国の王女とプロテスタントの首長との結婚の計画を知って仰天したのがローマ教皇ピウス5世。彼は大急ぎでアレッサンドリーノ枢機卿を特使としてフランスに送る。枢機卿はカトリーヌに言う。「教皇がこの結婚を許可されることは絶対にないでしょう」しかしカトリーヌはひるまない。「わたくしどもの国のことはわたくしどもにお任せくださいますように」
結局、会見はすさまじい言い争いの内に終わり、枢機卿は宮廷を去った。カトリーヌを「ベット(間抜け)」、シャルル9世を「ソット(阿呆者)」、アンリを「ファット(大馬鹿)」と呼び、女と議論するのは獣を相手にするようなことだと言いながら。
「マルグリット・ド・ヴァロワ」ピエール・デュモンスティエ「アンリ・ド・ナヴァル」1568年 フランス国立図書館
ピエール・デュモンスティエ「アンリ・ド・ナヴァル」1568年 フランス国立図書館
「ジャンヌ・ダルブレ」フランス国立図書館
「ガスパール・ド・コリニー」フランス国立図書館
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