「サン・バルテルミーの虐殺」6 寛容政策の背景

 新旧両派の会談は和解の望みのないまま失敗に終わる。9月26日の閉会演説で、カトリーヌはこう言わねばならなかった。

「わたくしどもはこの会談が、わたくしどもの期待した成果を――すべてのキリスト教会の愛にとって必要なものなのですが――結ばなかったことが、至極残念でなりません・・・」

 しかし、カトリーヌはあきらめない。融和政策を推し進める。戦略を変更し、思い切った独断的手段をとる。1562年1月17日、「一月王令」を発した。内容はこうだ。

 ・カトリック側から奪い取った教会や聖堂を返還することを条件に、町の城壁外に限ってユグノーは説教や礼拝を許される

 ・城壁内でも私邸内に限って集会を開くことが許される

 ・プロテスタント司祭たちは正式に承認され、役人でもプロテスタントのミサに出席することが許される

 これはまさに新教を、フランスの合法的な宗教のひとつとして認める革命的な試みだった。しかし、カトリック側の反発は大きい。旧約聖書における悪女の代表イスラエル王の妻イザベル(ユダヤ人にとって異教であるバアル信仰をイスラエルの宮廷に導入し、ユダヤ教の預言者たちを迫害、預言者エリヤを殺そうとした)の名が、カトリーヌに奉られた。パリ高等法院も、「国家の絆である信仰の統一を破る」くらいなら死んだほうがましだ、と勅令の登記を拒否した。しかしカトリーヌは単身馬を駆ってサン・ジェルマン離宮からパリに駆けつけ説得に当たる。そして2月14日勅令を登録させる。

 こうしたカトリーヌの行動を見ていると、彼女は時代よりも遥かに先の時点にいたことがわかる。宗教上の対立が作り出す悲劇的な状況を超えた地点を歩いていた。偉大な政治家としての彼女にとって最も重要なことは、国家の運命、すなわち王権の運命であり、合法的な権力の健全性と超党派性を信頼する国民の運命であった。だからこそ、彼女は、次のような驚くほどの先見性と近代性をそなえた文章を書いている。

「いかなる宗教が最も優れているかということを決定することが重要ではなく、国家を最もうまく組織することこそが重要なのである。」

「人間はキリスト教徒でなくても、たとえ破門された人間であっても、市民たりうる」

 カトリーヌは、狂信的なまでに宗教的であったこの時代状況からいかに遊離した存在だったことか。おそらく、彼女をこのような特殊な個性にさせたのは、あのルネサンスの豪華王ロレンツォ・イル・マニフィコの曾孫としてフィレンツェ、ローマの極めて文明化された環境、ルネサンスの人文主義の中で育ったことに起因するのだろう。しかし、それは彼女の力であると同時に弱点でもあった。彼女は信仰とはいかなるものであるのかを知らなかった。一つの信仰と一つの教義に執着するというのは、彼女の性格には無縁のことだった。この世の中には、カトリックの教義に(あるいは、その逆にカルヴァンの教義に)いささかでも背馳(はいち)することは罪悪であると考える人々、あるいはそうした人々の集まりがあるということは、想像したこともなかった。異端に対する焚刑が始まり、紅蓮の炎にあぶられながらも、執拗に救済予定説(神の救済にあずかる者と滅びに至る者が予め決められているとするカルヴァンの教え)に対する信仰を告白し、聖体の現存を悪魔的な迷信として否定するのか理解できなかった。カトリーヌ自身はカトリックだった。しかし、はたして教会の教えや秘跡の価値といったものを信じていたかどうかは、大いに疑問だ。彼女は幼年期に、ローマ教会の高位聖職者たちをあまりに近くから見すぎていた。ジャン・オリユーはその著書『カトリーヌ・ド・メディシス』の中でこう書いている。

「はっきりいえば、カトリーヌはキリスト教とは無縁な異教徒だったのだ。1561年と1562年における彼女の対ユグノー政策の秘密はそこにある。自ら信仰を持たなかったから、あらゆる信仰に対して寛容だった。」




シャティヨン家の三兄弟

フランソワ・クルーエ「シャルル9世」トゥールーズ アセザ館

ヴァザーリ「ロレンツォ・イル・マニーフィコ」ウフィツィ美術館

セバスティアーノ・デル・ビオンボ「クレメンス7世」J・ポール・ゲティ美術館

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