「ジャガイモと世界史」⑦アイルランド

 ヨーロッパ各国でジャガイモがまだ偏見にまみれていた中で、唯一「ジャガイモ好き」として知られていたのがアイルランドだった。アイルランドは、北緯50度(日本本土最北端の宗谷岬は北緯45度)を超える高緯度地方にあり、約1万年前まで全島を氷河が覆っていた。そのため土壌は薄く、しかも気温が低いために作物の生育に適した腐植土にも乏しい。そんな条件下でもジャガイモはよく育った。もともと大半のアイルランド人の主食はエンバクであり(これをオートミールにして食べていた)、バターなどの酪農品がそれを補っていたが、それでは冬に食べ物が乏しくなる。ジャガイモが注目されたのも当然だった。

 しかし、アイルランドでジャガイモが受け入れられた背景はそれだけではない。完全な独立国となった1949年まで、アイルランドは永らくイギリスの支配下にあった。その当時、土地の大部分はイングランド在住の地主が所有して、輸出作物の栽培や家畜の牧草地として、ほとんどのアイルランド人は自分の土地を持つことができなかった。小作人となったアイルランド農民は、農地の三分の二に小麦を植え、その収穫のほぼすべてをイングランドの地主に納めた。そして残り三分の一の劣悪な条件の土地にジャガイモを植え、主食として生き延びることができたのである。

 アイルランドにもたらされたジャガイモは、岩盤だらけのアイルランドの土地でも、ほとんど手入れなしで1ヘクタールの畑で17トンものイモが生産されるため「怠け者のベッド(苗床)」とさえ呼ばれた。ジャガイモのビタミンと数頭の牛からのミルクやバターで農民の生活が保障されたため、この国の人口は1754年の320万人から、1845年には約820万人にまで膨れ上がった。そこに襲いかかったのが「1348年の黒死病(ペスト)以降でヨーロッパ最悪の惨事」と言われる「ジャガイモ飢饉」(The Great Famine)。原因は「ジャガイモ疫病」。アメリカ起源のこの病気は、1845年7月にはベルギーで報告され、8月にはパリやドイツ西部にも広がり、同月末にはアイルランドに上陸。そして1849年まで5年間もこの病気はアイルランドで猛威をふるい続けた。200年近くもの間、ジャガイモの収穫だけを頼りに生活していた貧しい農民たちは、生き延びることさえ難しい状況に追い込まれていく。病気が収束して飢饉が終わるまでに、この「大飢饉」によってアイルランドで失われた人工は100万人に達した。あまりにも死亡者が多かったため棺桶も墓も間に合わずそのままの状態で荷車によって運ばれ、遺体はまとめて埋葬された。

 それにしても、なぜアイルランドだけで「ジャガイモ疫病」が「大飢饉」を引き起こしたのか?それは、アイルラン人があまりにもジャガイモに依存しすぎた(しかも「ランパー」という「ジャガイモ疫病」の影響を受けやすい品種のみ栽培)せいで、飢饉のような非常時に代替作物がなかったからだ。しかし、それだけではない。当時のアイルランドがおかれていた社会状況も考慮に入れなければならない。イギリス政府が十分な対応策を取らなかったのだ。食糧不足を解決するためには海外から安価な穀物を早急に輸入する必要があったが、「穀物法」(穀物の価格維持が目的)のために実行が困難だった。さらに、アイルランドから国外への輸出規制も行われなかった。驚くべきことに、飢饉が最も深刻な時でさえ、穀物を満載したアイルランドの船がイギリスに向かっていたのだ。当時の民族主義活動家ジョン・ミッチェルは怒りもあらわにこう言った。

「神がジャガイモ疫病菌を遣わされたことはまちがいない。しかし飢饉を作り出したのはイングランド人だ。」

 こうした状況にもと、疲弊したアイルランドに見切りをつけ新天地を求めて去っていくものが相次ぐ。「大飢饉」のあいだにアイルランドから去っていった人たちは150万人に達するとされる。しかし、貧しく、手に職もない移民(実態は今日の「難民」)たちを待ち受けていたのは苦難の道だった。とくに、プロテスタントが大多数を占めるアメリカでは、カトリック系のアイルランド移民は肩身が狭かった。アメリカ社会では、アイルランド人であり、カトリックであるということは汚名であり、職を得ようとすれば彼らに対する偏見が立ちはだかった。それでも、そのような苦難に満ちた社会の中から、成功するものも生まれる。その一人が、アメリカの歴代大統領45人の中で唯一カトリック信者であったJ・F・ケネディ大統領である。彼の曽祖父パトリック・ケネディは大飢饉が起こった1848年にアイルランドからアメリカに移住した人物であった。

荷車で運ばれる遺体 『Illustrated London News』 1847

1849年、飢饉のただ中にいる母親と2人の子供

ダブリンに建立された飢饉追悼碑

「飢饉」ダブリン セント・スティーブンス・グリーン公園

1868移民として旅立つ者を見送る人々

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