「ジャガイモと世界史」③プロイセン「フリードリヒ大王」

 ジャガイモの普及へのパルマンティエの貢献を語る前に、ヨーロッパ大陸で、いち早く庶民の食卓にパンの代わりにジャガイモが上がるようになったプロイセンをとりあげたい。そしてこの国においてジャガイモの普及に決定的な貢献をしたのが、プロイセン発展(このプロイセンが中心となって、1871年ドイツ統一が実現する)の基礎を築き大王と呼ばれたフリードリヒ2世(1712~86)である。

 この人物、なかなか複雑でその人物を理解するのは一筋縄ではいかない。若いころは哲学を好み、フルートを演奏する穏やかな青年だったが、暴力的な国王だった父フリードリヒ=ウィルヘルム1世に嫌気がさし、親しい友人と国外逃亡を図るが捕まり国家反逆罪で死刑宣告。自らは恩赦で死刑を免れるが、友人は彼の目の前で斬首、という強烈な体験を経て国王への道を進みはじめている。王太子時代に『アンティ・マキャヴェリ』を著わし、「マキャヴェリは政治を堕落させ、健全な道徳を破壊しようとした」とマキャヴェリの『君主論』を厳しく批判。「今や私は征服者のあらゆる個性よりも人間性こそ、もっと大切であることを知ったのだ。」と大見えを切っておきながら、父カール6世が急逝してハプスブルク家を相続したマリア・テレジアのオーストリア継承権に異議を唱えてシュレジエン(鉱物資源に恵まれオーストリアの宝庫と言われた)を不法占領。マキャヴェリストの本質をあらわにした。啓蒙思想家ヴォルテールと親交を重ね、フルートは演奏だけでなく作曲も行い、「君主は国家第一の僕(しもべ)」を信条とする啓蒙専制君主だったが、敵対した三国の女傑のことは徹底的に蔑んだ(オーストリアのマリア・テレジアは「教皇の魔女」、フランスのポンパドゥール夫人は「マドモアゼル・ポアソン(母親が魚屋出身)」、ロシアのエリザヴェータ女帝は「好色な雌豚」)。しかし一貫していたのは、プロイセンの国家利益を第一に考え行動したこと。国家の指導者に最も必要な資質を備えていたのだ。こういう人物だったからこそ、非合理的な偏見や非科学的な噂に捕らわれることなく、強力にジャガイモ導入を実現できたのだ。

 フリードリヒ2世が即位した当時、プロイセン国内は荒廃の極みに達していた。原因は、プロイセンが主な戦場となった「三十年戦争」(1618年~48年)の後遺症、その後に発生したペストの大流行、天候不順による度重なる凶作。彼は、国力の増強を図るためには、農産物の生産性を高め、さらには農業人口を増やすなど、食料の増産体制を整えることが急務と考えた。そして、ジャガイモは食料として優れているだけでなく、飢饉の折には有力な救荒作物になるであろうとも考えていた。そのため、偏見に捕らわれ食わず嫌いの国民にジャガイモの価値を理解させようと、公開でジャガイモの試食会を開き、その場で自ら率先してジジャガイモ料理を食べて見せた。それだけではない。1756年3月24日、プロイセンの全ての役人に宛てて、次のような「ジャガイモ令」を発した。

「この、地になる植物(ジャガイモ)を栽培することのメリットを民に理解させ、栄養価の高い食物として今春から、植え付けを勧めるように。

 空いた土地があれば、ジャガイモを栽培せよ。なぜならこの実(ジャガイモ)は利用価値が高いだけでなく、労に見合うだけの収穫が期待されるからである。

 単に農民たちに栽培方法を指導するにとどまるのではなく、彼らの働きぶりを、竜騎兵やその他の使用人たちに監視させるように!」

 そして発布後は、各地に軍隊を派遣して栽培状況を監視させ、違反者に対しては耳や鼻をそぎ落とすぞ、などと脅かしながら栽培令の徹底を図った。この強権発動の効果は大きかった。「七年戦争」(1756年~63年)が終わるまでに、ジャガイモの栽培はほぼプロイセン全土に広がり、兵糧を確かなものにしたプロイセン軍は屈強、精強の軍隊となった。フリードリヒは1786年、74歳の生涯を閉じるが、46年にわたる統治の結果、領土は11万9千㎢から19万5千㎢に増え、人口は224万人からなんと543万人にまで増加したが、そのうち22万人が軍務についた。そして、プロイセンの強国への道の出発点にあったのがジャガイモだったのだ。

(ロベルト・ヴァルトミュラー「農村を見回るフリードリヒ大王」ベルリン ドイツ歴史博物館)

(アントン・グラフ「フリードリヒ2世」サンスーシ宮殿)

(アドルフ・フォン・メンツェル「サンスーシ宮殿でフルートを演奏するフリードリヒ2世」 ベルリン 旧国立美術館)


「フリードリヒ大王騎馬像」ベルリン ウンター・デン・リンデン

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