江戸の名所「品川」⑩「イギリス公使館焼き討ち事件」

 文久元年(1861)5月28日、英国公使館がおかれていた高輪東禅寺を水戸浪士14人が襲撃した(第一次東禅寺事件)。イギリス公使オールコックが幕府の反対を押切って陸路入京したことは神州をけがした、との理由からだ。この事件の一周年にあたる文久2年(1862)5月29日には、東禅寺警備兵の1人、松本藩士伊藤軍兵衛が、多大の藩財政の出費を強いる公使館警備の解除と、日本人相互の闘いを防ごうとして、イギリス水兵2名を殺害し、自らも自殺した((第二次東禅寺事件))。この年の9月14日には生麦事件も起きる。薩摩藩の島津久光の一行が江戸からの帰路、東海道の生麦村(現・横浜市鶴見区)で馬に乗った英国人4人と遭遇。英国人が馬を下りずに行列を乱したのを無礼とし、藩士が刀で切りつけて1人が死亡、2人がけがをした。

 安政5年(1858)の日米修好通商条約締結後、度重なる攘夷派のテロに、イギリス、アメリカ、フランスは、それまでの寺院を間借りしたものと異なる公使館の建設を幕府に要望。幕府は、御殿山に完全な洋風建築であり、 周囲に深い空堀と背の高い柵をめぐらし跳橋を設けるなど、攘夷派の襲撃に備えた構造をもつ公使館の建設を決定していた(品川宿は御殿山の由緒と庶民の憩いの場であることを理由に建設反対の意見書を提出していたが)。そして最初に建てられたのが英国

公使館だった。

 文久2年(1852)12月12日、ほぼ完成していたイギリス公使館が焼き討ちされる。メンバーは高杉晋作を隊長、久坂玄瑞を副隊長とする13人の長州藩士。志道聞多(井上馨)や伊藤俊輔(博文)も火付け役として加わっていた。彼らが実行前に泊まり込んで謀議を重ねたのが、品川宿の「土蔵相模」だった。彼らはイギリス公使館内に潜入し、火薬に火を放ち、竣工前の公使館を全焼させた。そこから逃れた一行は芝浦の妓楼「海月楼」に上がり、御殿山で燃え盛る紅蓮の炎を肴に痛飲した。

 この事件について、伊藤博文は明治政府の高官になってから若き日の武勇伝として声高に自慢している。

「幕吏は大抵吾々の仕業であると目星をつけたに相違ないが、証拠のないのと、幾らか長藩の勢力に遠慮したものと見え、深く追及せなんだから、同志中一人も之が為に処罰を受けたものはなかった」

 しかし、幕府が懸命になって犯人を追及しなかった事情は別のところにあったようだ。実はこの事件で一番利益を得たのは幕府だったのだ。御殿山を外国公使館用地として使用することには、官民両方からの激しい反対が起こった。攘夷論者である孝明天皇も反対し、その意向を幕府に伝えてきた。幕府はイギリス、フランス、アメリカに用地の放棄を申し入れるが、いずれも拒否されてしまう。幕府は、朝廷と外国の板挟みという窮地に陥っていた。それを救ったのが焼き討ち事件だった。イギリスの代理公使ニールなどは、窮地に陥った幕府が、裏で何らかの操作をして、公使館を焼き討ちさせたのではないかと疑惑を抱いたほどだ。

 それにしても、なぜ高杉はイギリス公使館を焼き討ちしたのか?この年の5月6日~7月5日、高杉は上海に渡航。目的は、幕吏に随い上海に渡り、かの地の形勢および事情、制度・器械に至るまで心を用いてなるべく視察すること。5月6日、上海に到着した高杉は日記にこう記す。

「午前ようやく上海港に至る。ここは支那第一の繁津港なり。ヨーロッパ諸国の商船、軍艦数千艘碇泊・・・陸上は即ち諸国の商館紛壁千尺、ほとんど城閣の如し。其の広大厳烈なること筆紙を以って尽すべからざるなり」

アメリカ商人チャールズ宅を訪れ日本や清国の情勢について意見交換したり、イギリス人宣教師ミュアヘッドを訪ねて、外国人のキリスト教の布教活動のやり口を初めて納得している。そしてこう日記につづる。

「つらつら上海の形勢を見るに、支那人はことごとく外国人に使役され、英仏人が街を歩けば清人みな道をよける。実に上海は清国の地でありながら英仏の属国と言ってよい。日本人もこころすべきである。支那だけのことではない」

 その後も、幕吏に従ってオランダ商船の検分に出かけたり、イギリス砲台でアームストロング砲を見学する。そして7月14日、長崎に帰港した日の日記にこう記す。

「わが神州も早急に攘夷の策をめぐらさなければ、ついに支那の覆轍を踏むことになりかねない」

 高杉は上海渡航体験を通して、国家主義的な危機意識に覚醒し、富国強兵と攘夷の決行こそが焦眉の急と考えるようになる。そんな彼が、公使館焼き討ちで攘夷が実現するなどと考えるわけがない。高杉にとっての攘夷とは、目的ではなく手段に過ぎない。倒幕・開国のため、それによって富国強兵を実行し欧米列強に負けない国家を作り上げていくための手段だった。


広重「江戸名所三つのながめ 御殿山花見」


北斎「冨嶽三十六景 東海道品川御殿山ノ不二」

昭和初期の土蔵相模


御殿山外国公使館図

御殿山英国公使館側面図 文久元年8月


高杉晋作

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