江戸の名所「品川」⑨「土蔵相模」と「桜田烈士」

 「旅籠百軒」と謳われた品川宿は、文字通り旅籠が軒を連ねていたが、その中でも幕末の志士たちが使ったことで知られるのが高輪寄りの歩行(かち)新宿にあった「相模屋」、通称「土蔵相模」。外壁が土蔵のような海鼠〈なまこ〉壁であったことからこう呼ばれていたが、旅籠というより品川でも有数の規模を誇った妓楼だった。ここは文久2年(1862)の高杉晋作らは長州が藩士による「英国公使館焼き討ち事件」とともに安政7年(1860)の「桜田門外の変」にかかわりを持つ。

 安政5年(1858)6月,時の大老井伊直弼は朝廷の勅許を得られないまま日米修好通商条約に調印した。これに対し朝廷は,同年8月,幕府の条約調印は遺憾である旨を記した勅諚を水戸藩へ下した【戊午(ぼご)の密勅】。この前例のない事態に直面し,幕藩権力の解体の危機を感じた井伊は,9月から,尊攘派の公卿や志士,水戸藩士などの反対勢力に徹底した弾圧をおこなった(水戸老公の徳川斉昭も謹慎を命じられた)。「安政の大獄」である。これに対して、水戸の脱藩浪士18名と薩摩藩浪士1名が江戸城の桜田門外で登城中の彦根藩の行列を襲撃し大老井伊直弼を暗殺。これが「桜田門外の変」である。この事件は、大老が白昼江戸城の門前で暗殺されたことから,幕威失墜の転機となり,事件後幕府は公武合体(「和宮降嫁」=孝明天皇の妹和宮内親王と14代将軍徳川家茂との結婚)へ政策を転換。第15代将軍・徳川慶喜によって大政奉還が成されるのは、この事件からわずか7年と7か月後の慶応3年(1867年)10月14日のことである。

 事件前日の3月2日、13人の水戸浪士たちは土蔵相模の4軒隣の引手茶屋稲葉屋から土蔵相模にあがり、今生訣別の酒宴を張る。

「鉄之介は、稲葉屋の男に案内されて最後の打合わせ場所である相模屋に行った。土蔵相模と称されているように土蔵づくりの大きな妓楼で、かれは玄関に入った。板敷の内部にあがって廊下をゆくと、中庭にかかった朱塗りの橋があり、その奥に広間があった。」(吉村昭『桜田門外ノ変』)

(「鉄之助」=関鉄之助。桜田門外の変の実行隊長。再起を期し逃走するが、越後で捕らえられ,文久2年5月11日江戸で処刑された。)

そして酒を酌み交わした後、稲葉屋に戻ってそこに宿泊。翌朝、季節外れの雪の中を桜田門へと向かうが、途中ある場所に寄る。18人の最終集合地点である愛宕神社である。この神社は、1603年にこれから建設される江戸の防火のために徳川家康の命で祀られた神社であったが、「天下取りの神」、「勝利の神」としても知られていた。襲撃メンバー18人全員は、神前に彼らの義挙が成就することを祈念。「櫻田烈士愛宕山遺蹟碑」と書かれた大きな石碑が今も存在する。

 ところで襲撃者側で、明治時代まで生き延びたのは増子金八と海後磋磯之介の2名のみ。それ以外のものは、闘死、自刃または斬罪。関鉄之助の愛人滝本いの(元吉原・谷本楼の遊女)も、鉄之介の潜伏の手助けをしたため、逃亡先を問われ、「鞭打ち」や「石抱き」という拷問にあった後、伝馬町牢屋敷にて獄死。他方、彦根藩側は、襲撃により直弼以外に8名が死亡、5名が重軽傷。死亡者の家には跡目相続が認められたが、生存者には事件から2年後、直弼の護衛に失敗し家名を辱めたとして処分が下された。重傷者は減知の上、藩領だった下野国佐野(栃木県佐野市)へ流され揚屋に幽閉。軽傷者は全員切腹。無疵の士卒は全員が斬首・家名断絶となった。

月岡芳年「安政五戊午年三月三日於イテ桜田御門外ニ水府脱士之輩会盟シテ雪中ニ大老彦根侯ヲ襲撃之図」 


蓮田市五郎「桜田門外之変図」部分


広重「東都名所・外桜田弁慶堀桜の井」

「桜の井」は名水井戸として知られた「江戸の名所」で、 井伊家表門外西側にあった


北壽「東都芝愛宕山 遠望品川海」


二代広重「江戸名所四十八景 愛宕山雪中」


「桜田烈士愛宕山遺蹟碑」

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