江戸の名所「品川」⑦品川の客2 薩摩藩邸


 「品川の客にんべんのあるとなし」の「にんべんのある」「侍」の多くは薩摩藩士。何しろ薩摩藩は77万石の大藩。江戸にいくつも屋敷(藩邸)を持っていた。江戸藩邸は上屋敷(大名とその家族が居住し、江戸における藩の政治的機構が置かれた屋敷)、中屋敷(屋敷の控えとして使用され、多くは隠居した主や成人した跡継ぎの屋敷とされた)、下屋敷(園など別邸としての役割が大きく、大半は江戸城から離れた郊外に置かれた)、蔵屋敷(年貢米や領内の特産物を収蔵した蔵を有する屋敷)に分けられる。これらは江戸幕府から与えられた土地に建てられた「拝領屋敷」であるのに対し、大名が民間の所有する農地などの土地を購入し建築した屋敷は、抱屋敷(かかえやしき)と呼ばれる。ここは、火災の多かった江戸での緊急避難場所でもあった。薩摩藩はこれらのすべてを江戸で有していた。

①桜田屋敷  初期の上屋敷。藩主が江戸城登城の際に身支度を整えたため別名「装束屋

       敷」

②三田屋敷  桜田屋敷後の上屋敷。薩摩藩の江戸での中心。西郷が仕えた島津斉彬はここ

       で生まれ育った。また天璋院篤姫が将軍家定に輿入れする際にも、まず最初

       この屋敷に入り、1年ほど生活した。鳥羽・伏見の戦い、そして戊辰戦争へ

       の引き金となった慶応3年(1867年)の「薩摩藩邸焼打ち事件」の「薩摩藩邸」

       もこの三田屋敷。

③高輪屋敷  中屋敷。慶応4年3月13日の西郷隆盛と勝海舟の江戸城無血開城に向けた第1

       回会談が行われた。

④田町屋敷  蔵屋敷。慶応4年3月14日の西郷隆盛と勝海舟の江戸城無血開城に向けた第2

       回会談が行われた。

⑤渋谷屋敷  下屋敷。現在の常磐松御用邸(常陸宮邸)。

⑥白金屋敷  抱屋敷。現在の八芳園。

⑦大井屋敷  抱屋敷。幕末には斉興が隠居屋敷として使用。

 以上からわかるように、江戸薩摩藩邸は品川近くに三田屋敷、高輪屋敷、田町屋敷、大井屋敷があった。だから品川妓楼の客の武士の多くが薩摩藩士だったのだ。

            「品川は薩摩ばかりの下駄の音」

 吉原や岡場所、宿場などの遊里で武士は嫌われた。とくに、勤番武士は嫌われ、「野暮な田舎侍」といって笑いものにされた。勤番武士は、およそ1年間江戸藩邸の中の「御長屋」(町人が居住する長屋と区別するためにこう呼ばれた)で独身生活を強いられた。大半のものは、ほとんど仕事はなく、暇を持て余していた。金もない。こんな連中は、金離れが悪いわりに要求が大きい。要するに「もとを取るぞ」とばかり、何度も求める。品川の女郎屋を描いた『南閨雑話(なんけいざつわ)』(夢中山人 むちゅうさんじん 安永2年【1773】刊)に、藩邸出入りの町人が接待のため、藩士を品川の女郎屋に招待する話が出てくる。別れ際、遊女がこう言って武士の客について憤懣を述べている。

「なんだか、馬鹿らしいのヲ。今度からもふ、あのよふな連衆(つれし)は、止(よ)しになんし。いっそ人をば寝かしもしないで・・・・」

 こんな川柳がある。

               「品川と麹町とに入れあげる」

 麹町三丁目に獣肉を売る甲州屋などの店が多くあり、「麹町」とは獣肉屋の代名詞。この川柳は、獣肉好きな薩摩藩士が品川女郎相手に性の発散をする様子をうたっている。次の句も薩摩藩士と品川女郎のやり取りを詠んだ句。

           「『赤犬は喰(くい)なんなよ』と南女(なんにょ)言ひ」

 「南女」とは品川女郎のこと。薩摩では赤犬を美味として食べる習慣があったが、当時の日本は獣肉食いは表向き禁止(「薬食い」と称して実際には食べられてはいたが、特に女性の多くは敬遠した)され、獣肉を常食すると独特の臭みがあるとされ、「鹿(か)臭い」などと言われた。

 いずれにせよ、品川の女郎屋で、増上寺の修行僧も薩摩の勤番武士もかなり目立つ存在だったようだ。


薩摩藩の高輪藩邸


薩摩藩邸焼き討ち事件

(「品川青楼遊興の図 三枚続」歌川豊国) 部分


『絵本時世粧』 営業前くつろぐ品川宿の遊女たち  

品川の女郎はピンからキリまで。金のない勤番武士の相手はこうした女郎だったのだろう。

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