江戸の名所「品川」④「浅草海苔」
2月6日が「海苔の日」と定められたのは1966年(昭和41年)。なぜ2月6日かというと、その由来はなんと701年に制定された「大宝律令」にまでさかのぼる。この大宝律令には朝廷への調(税の一種)として29種類の海産物が挙げられており、そこに海苔も含まれていたが、大宝律令が施行された702年1月1日を新暦に換算すると2月6日であるためという、ちょっとややこしい由来。
いずれにせよ、縄文時代から食べられていたらしい海苔の歴史は古いが、浅草海苔の誕生、海苔巻きの登場、海苔養殖の始まりなど、現在の海苔業界の基盤が築かれたのは江戸時代。浅草海苔が採られるようになったのは、『東都歳時記』によれば、徳川家康が江戸に入府する前後にあたる元亀【1570-1573年】・天正【1573-1592年】の頃からだそうだ。採れた場所は、最初は浅草の周辺だったが、そのうち、葛西で採れた海苔が浅草に送られ浅草海苔と称された。さらに、海苔の需要が増えると、浅草周辺での生産が追いつかなくなり、品川で採れた海苔が浅草で加工され浅草海苔とよばれるようになった。『江戸名所図会』巻之二の「浅草海苔」にはこう記されている。
「大森・品川等の海に産せり。これを浅草海苔と称するは、往古(いにしえ〉かしこの海に産せしゆゑに、その旧称を失はずしてかくは呼び来れり」
養殖の始まりの経緯はこうだ。江戸城に鮮魚を納める役目を負った「御菜肴八ヶ浦」のひとつだった品川では、浅瀬に枝のついた竹などで生簀を作り、常に魚を用意していた。そして冬になるとその枝にたくさんの海苔が生えることに着目。それを見て、木の枝や笹竹などを品川の浅瀬に建て始めた。
「浅草海苔を取るは大森より北品川までの渚にて、秋の彼岸より春の彼岸まで取也、浅き所は歩行にて、深きところは舟にてゆき十町二十町あるいは一里も出て、ヒビという物を海底へさし込み、満潮につれ、海苔これにとどまるなり、寒中に取を最上とす、至って美味なり。」(『東海道名所図会』)
この養殖のための木の枝などは「ヒビ」や「ヒビソダ」と呼ばれた。ヒビが建てられている様子は品川の名物になっていたようで広重は『名所江戸百景』「南品川鮫洲海岸」に描いている。
ところで、品川産、大森産でありながら「品川海苔」の名前はすぐに消え、「浅草海苔」が海苔の代名詞のようにして残った理由は、単に初期の海苔採取場所が浅草近くだったという理由だけでなく、海苔の加工方法に関係しているようだ。延宝年間(1673~1681)または天和年間(1681~1684)、浅草で「浅草紙」と呼ばれる漉(す)き返し紙が製造され始めた。これは、古紙・ぼろきれなどを材料にして漉き返した下等の紙で、落とし紙や鼻紙などに用いられたが、浅草山谷辺りで多く製造されたところから「浅草紙」の名がついた。浅草紙の漉き場は、橋場や今戸にあったが、浅草海苔の製法も、浅草紙の製法と似ており、浅草海苔の抄き場も橋場や今戸近くにあったようなのだ。そして、浅草海苔が作られ始めたのは享保年間、つまり浅草紙より遅い。となると、浅草海苔は、浅草紙の製法を基礎にして、浅草紙と同じやり方で製造されるようになり、その加工法ゆえに「浅草海苔」の名が残ったのだろう。
ちなみに、江戸時代のノリの養殖、採取、製造については、『東海道名所図会』、『江戸名所図会』、広重などの浮世絵見ると、かなりの程度イメージできるようになる。
広重「江戸近郊八景 羽根田落雁」 びっしり植えられた「ヒビ」。品川から大森にかけての鮫洲海岸で海苔養殖が盛んだった。
広重「名所江戸百景 南品川鮫洲海岸」 「ヒビ」が描かれた代表的な浮世絵
『東海道名所図会』海苔の採取風景。舟が描かれていなければ、陸の畑のようだ。
広重「品川 大森 名産海苔取」
北斎「東海道五十三次 品川 川崎へ二里半」
『江戸名所図会』「浅草海苔」
国貞「江戸自慢三十六興 品川海苔」
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