江戸の名所「品川」③「鯨塚」

 浮世絵を見ていて、「洲崎」とだけ書いてあるとそれが「深川洲崎」なのか「品川洲崎」なのか判然としないものがある。初日の出はたいてい「深川洲崎」で、高い土手と高潮被害から設けられた広い空き地、すぐ北側に木場があることなどの特徴からそれとわかるが、潮干狩りなど判然としない絵もある。どちらにも共通しているのは弁財天があったこと。品川洲崎の弁財天は、洲崎(南品川宿1丁目から目黒川に沿って北東の方角に、岬のように海に突出した洲)の先端にあった。寛永3年(1626)に、東海寺の沢庵が弁財天を勧請したのが始まりとされるが、明治に入り神仏分離令により利田(かがた)神社と改称。利田の名は、当地一帯が安永3年(1774)から天保5年(1834)にかけて、南品川宿名主利田吉左衛門により開発されたことから利田新地と呼ばれたことに由来する。

 ところで『江戸名所図会』の「洲崎弁天」にもはっきり描かれているが、ここには「鯨塚」がある。東京都内に現存する唯一の鯨碑として、品川区の指定有形文化財となっている。これは「寛政の鯨」(享保【1716〜1736】と文化【1804〜1818】年間の2度お目見えした「象」、「文政の駱駝」【1821】と共に江戸動物三大事件として語り継がれた)と呼ばれた鯨騒動に由来する。どんな事件だったのか。

 寛政10(1798)年5月1日、前の晩からの暴風雨によって品川沖に一頭の鯨が迷い込んで来た。近隣の漁師たちは力を合わせてその鯨を天王洲に追い込み、浅瀬で動けなくなったところで生け捕りにした。鯨は長さ16メ-トル、高さ2メ-トルの巨大な「セミ鯨」(背びれはなく、浮上した時には小山のような背中が浮かび上がり、この様子が“背中が美しい【背美-セミ】”もしくは“水がはじけるようで背中がかわ乾きあがる【背乾-セビ】”が和名の語源)。この知らせが江戸中に伝わると大勢の見物人が押しかけ、沖の鯨を一目見ようと漁師たちの船を借り上げて見物。寛政年間(1789-1801年)の風聞を記した『梅翁随筆』にはこうある。

「見物貴賤蟻のごとし。浜辺より二三町も隔てたれば船をかり切て行もあり、乗合船あれど価ひ高きこといふばかりなし、されどはるばる品川迄至りて間近く見らざらむも其栓なければ、価の高下を論ぜず」

 当初は24文だった見物の船賃は100文にまで上がったそうだ。さらに、五月三日、漁師たちは鯨に縄をかけて浜御殿(現・浜離宮恩賜庭園)沖まで船で引いていき、将軍・徳川家斉が上覧。『続 徳川実紀』にもこう記されている。

「去りし朔日の夜 雨ふり風つよかりしが。品川の沖にして鯨を所の漁者どもとらへ得たり」

 しかし鯨はだんだん腐り始め、品川湾岸にまでその臭気が広がってきたため、漁民たちは鯨の解体を決定。当時の幕府の取り決めにおいては、普段捕鯨を行っていない地域で鯨が捕れた場合、村役人の検分を受けた後、入札によって払い下げられることになっていた。それに従い、宇田川町(現・港区)の佐兵衛が胴体部分を金41両3分で落札。そして残った頭部の骨を洲崎弁天の境内に埋め、石碑(これが「鯨塚」)が建てられた。

 この騒動を受けて滝沢馬琴は「鯨魚尺品革羽織」(これで「くじらざししながわばおり」と読むようだ)、十辺舎一九は「大鯨豊年貢」(おおくじらほうねんみつぎ)を表した。またこんな狂歌まで流行った。

「品川の沖にとまりし せみ鯨みなみんみんと 飛で来るなり」(鹿都部真顔 しかつべのまがお)

 勝川春亭の「品川沖之鯨高輪ヨリ見ル図」を見ると当時の様子が伝わってくる。ただし、二頭描いているのはフィクション。ちなみに国芳も「大漁鯨のにぎわひ」で鯨を描いているが、これは「寛政の鯨」ではなく、嘉永4(1851)年4月11日に鮫洲の海岸に現れた鯨を描いたものである。

勝川春亭「品川沖之鯨 高輪ヨリ見ル図」 


勝川春亭「品川沖之鯨 高輪ヨリ見ル図」部分


国芳「大漁鯨のにぎわひ」


利田神社


鯨塚


広重「名所江戸百景 品川すさき」 洲崎弁天社

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