江戸の名所「品川」②ヤマトタケル伝説

 『古事記』『日本書紀』に登場する伝説的な英雄「日本武尊(倭建命)」(やまとたけるのみこと)。東征の折、相模国(神奈川県)から上総国(千葉県)へ向かうため海を船で渡ろうとしたが、海が大いに荒れ、船が沈没しそうになってしまう。海に臨んだ日本武尊が不遜にも「こんな小さい海、飛び上ってでも渡ることができよう」(『日本書紀』)と大言壮語して神の怒りを買ったからだ。この時、妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が夫である日本武尊の尊い使命を果たさせようとしてこう言う。

「いま風が起こり波が荒れて御船は沈みそうです。これはきっと海神のしわざです。賎しい私めが皇子の身代りに海に入りましょう」(『日本書紀』)

 そして、言い終るとすぐ波を押しわけ海に身を投げた。暴風はすぐに止み、船は無事海を渡ることができた。

 品川にこの日本武尊と弟橘媛の伝承が伝わる神社がある。東品川の寄木神社(よりきじんじゃ)。当然御祭神は日本武尊と弟橘姫命。当社の御由緒によると、日本武尊たちが乗っていた船の一部が砕けて、この品川浦に流れ着いたため、その木片を当地の漁民たちが納めて祀ったのが当社の起源とされている。もちろん、関東圏には、「橘樹神社」(現・千葉県茂原市)や「走水神社」(現・神奈川県横須賀市)などこうした弟橘媛の船の破片や遺品などが漂流したと云う御由緒の神社が20社ほど存在するそうだが。

 ところで江戸時代、徳川将軍家のために江戸城に海産物を献上していた「御菜肴八ヶ浦」(おさいさかなはちがうら)があった。芝金杉浦(現・芝)・本芝浦(現・芝浦)・品川浦(現・品川)・大井御林浦(現・大井と東大井)・羽田浦(現・羽田)・生麦浦(現・生麦)・子安新宿浦(現・子安)・神奈川浦(現・神奈川)の8つの漁師町である。このうち明暦年間(1655年-1657年)に南品川の海岸沿いに成立した「品川浦」(南品川猟師町)の鎮守とされたのが「寄木明神社」(現:寄木神社)である。天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』には、街道を行き来する多くの魚売り、海岸の漁師船、魚を取る網や海苔養殖に使う粗朶(そだ)という木の枝も描かれていて、当時の猟師町の様子をうかがうことができる。また、天保14年(1843)の品川宿の明細帳には、品川で獲れた魚介類のリストが収録されている。鯒(こち)・鮃(ひらめ)・芝海老・沙魚(ざこ)・白魚(しらうお)・あいなめ・烏賊(いか)・きす・うつぼ・石もち・小鯛・ 黒たゐ(鯛)・鰡(ぼら)・さより・鰈(かれい)・ほうぼう・あかえい・鰆(さわら)・赤貝・蛤など。こうした豊富なネタを使って、江戸前天ぷら、江戸前寿司が誕生するのである。



(『江戸切絵図』 「芝高輪辺絵図」)

絵図の上から下に流れているのが目黒川。その河口にできた洲の先にあったのが洲崎弁天。また「猟師町」が「南品川漁師町」=「品川浦」でここに「寄木明神社」があったようだ。


(『江戸名所図会』「寄木明神社」)


(伊藤深水「弟橘媛」神宮徴古館農業館)


(大浦玉陽「橘媛投身之図」走水神社)


(『江戸名所図会』「洲崎弁天」)橋の向こうが品川浦(南品川猟師町)、手前が品川宿(北品川宿)


(広重「名所江戸百景 品川すさき」)橋の下を流れるのが目黒川。橋の手前が北品川宿。

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