「ミケランジェロとシスティーナ礼拝堂天井画」5 ミケランジェロのメッセージ②「ハマンの懲罰」

 エレミヤの苦悩は、教皇廟墓の仕事を中止させられ、いつ終わるとも知れない天井画の制作に従事させられるミケランジェロの苦悩。父親との確執、スペイン軍によるプラート劫略、フィレンツエの政情不安もミケランジェロを苛立たせた。

「私は惨めな暮らしを送っています。果てしない労苦に擦り切れ、数多の心配事に悩まされています。こんなふうに15年間生きてきて、1時間とて幸せを味わったことはありません。それもこれも、あなた方を助けるためなのに、あなたがたはそのことを認めようとも、信じようともしません。神よ、我ら一家をお赦しください」(1512年10月父ロドヴィコ宛手紙)

 まさにエレミヤの苦悩そのものだ。もちろんミケランジェロは単に自分の苦悩表現のためだけにエレミヤを天井画の最重要部分に描いたわけではないだろう。彼は、神から離れ腐敗堕落した当時のローマ・カトリックに対する苛立ち、批判も込めたように思う。

 ミケランジェロの凄さは、不安と苛立ちが最高潮に達したこの時期に、天井画の中でも最も完成度が高い、彼の力量が頂点に達した作品を描いていることだ。それが「ハマンの懲罰」。

「美しさと難度において、間違いなく最高のもの」(ヴァザーリ)

「たとえ人類が滅んでも、地球が続く限り、この絵は残さなければならない」(美術史家アルガン)

 これは『旧約聖書』「エステル記」の物語。幼くして両親を亡くしたエステルはいとこのモルデカイに育てられた(二人はユダヤ人)。ペルシアのクセルクセス王の召使いのモルデカイは暗殺をもくろむ宦官二人の陰謀を阻止し、王の命を救うが、宰相ハマンに対する礼を拒んだため恨みを買う。執念深いハマンは王に「ユダヤ人は老若男女を問わず一人残らず滅ぼされ、殺され、絶滅させられ、その持ち物は没収される」との布告を出させまでに至る。さらに、高さ22メートル(「50アンマ」)の絞首台を作り、頑固なモルデカイへの恨みを晴らそうとする。モルデカイは、その美しさから王妃にまでなっていたエステルに「王のもとに行って、自分の民族のために寛大な処置を求め、嘆願するように」求める。しかし、エステルは拒否。法律で「王に、召し出されずに近づく者は、男であれおんなであれ死刑に処せられる」と定められていたからだ。しかしモルデカイはエステルを説得する。

 「この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」

 エステルは死ぬ覚悟で王のもとに向かう。王から謁見を許されたエステルは、酒宴に王とハマンを招待する。酒宴の席で王から「王妃エステルよ、何か望みがあるならかなえてあげる。」と言われたエステルはこう答える。

「私のために私の命と私の民族の命をお助けいただきとうございます。私と私の民族は取り引きされ、滅ぼされ、殺され、絶滅させられそうになっているのでございます。」

 そして、その恐ろしい敵がハマンであることを告げる。前夜、王の暗殺計画がモルデカイによって阻止されたことを知っていた王は、モルデカイをつるそうとしてハマンが立てた柱に彼を吊るすように命じた。その後ユダヤ人の迫害は取り消され、逆にユダヤ人を迫害するものに対するユダヤ人の復讐が行われる。「仇敵7万5千人を殺した」とエステル記は記している。

 この物語は、多くの画家によって描かれてきた。最も多く描かれたのは、エステルが命を懸けて王に面会し、王に許され気を失うシーン。しかし、気を失ったという記述は「エステル記」にはない。また、王とエステル、ハマンが同席する酒宴やエステルに慈悲を請うハマンも主題になった。数は少ないがエステルが王妃になる前の場面を描いたものもある。ミケランジェロが描いたのは、ほとんど作例のないハマンの処刑場面。「エステル記」には「柱につるされ」と書かれているが、ミケランジェロは十字架刑のように描いた。人類の罪を贖って十字架刑にかかって死んだイエスの苦しみを思い起こせ、とそれを目にする聖職者たちに訴えかけているかのようだ。

(ミケランジェロ「ハマンの懲罰」)

 (アールト・デ・ヘルデル「エステルとモルデカイ」ブダペスト国立美術館)

(ティントレット「クセルクセス王の前のエステル」ロイヤル・コレクション)

(アルテミジア・ジェンティレスキ「王の前で気絶するエステル」メトロポリタン美術館)

(レンブラント「エステル、ハマン、クセルクセス王」プーシキン美術館)

(ピーター・ラストマン「エステルに慈悲を請うハマン」ワルシャワ国立美術館)

(テオドール・シャセリオー「エステルの化粧」ルーヴル美術館)

王に会うために化粧をするエステル

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