「ミケランジェロとシスティーナ礼拝堂天井画」4 ミケランジェロのメッセージ①預言者エレミヤ

 システィーナ礼拝堂は1477年から1480年にかけてユリウス2世の叔父のローマ教皇シクストゥス4世(イタリア度ではシスト4世、そこから「システィーナ」礼拝堂と名付けられた)によって建設された。高さ20.7m、奥行き40.9m、幅13.4m。これは『旧約聖書』の『列王記』6章にあるソロモン王の神殿の比率と同じ。 ミケランジェロが描いたのはこの天井部分と側壁の一部で、総面積は約1000㎡、なんとテニスコート3面以上の広さだ。そこにフレスコ画経験のなかったミケランジェロがどういう順序で描いていったかは、天井画を理解する上で重要な問題だと思っている。

 システィーナ礼拝堂の構造だが、大理石の「トランセンナ」(彫刻が施された柵)が室内を大きく二分している。祭壇近くの礼拝堂関係者の場所と、巡礼者や礼拝堂を訪れる近隣住民ら一般信徒の場所である。今は一般人もトランセンナの内側に入ることができるが、教皇や枢機卿などしか入れなかった当時、ミケランジェロが、彼らが近くで目にする絵画に重要なメッセージを込めたであろうことは想像できるし(彼自身は語っていないが。ミケランジェロは、当時のローマ・カトリックに対してかなり批判的な考えを持っていた)、その部分を絵画制作技術のあがる後半の時期に持って来たことも当然だろう。そこで、最後の時期に描いたとされる「預言者エレミヤ」、「ハマンの懲罰」、「青銅の蛇」、「預言者ヨナ」を取り上げて考えてみたい。

 まず「預言者エレミヤ」。イザヤ、エゼキエル、ダニエルとともに旧約聖書に登場する4大預言者の一人とされるが、天井画に描いた7人の預言者の中でなぜミケランジェロはエレミヤを祭壇にもっとも近い位置に配置したのだろう。エレミヤとはどんな預言者か? イスラエルはダヴィデの子ソロモンの時代に絶頂期をむかえる。しかし、その死後イスラエルは南王国(ユダ王国。首都エルサレム)と北王国(イスラエル王国。首都サマリア)に分裂。北王国は紀元前722年にアッシリアに滅ぼされる。南王国は、紀元前597年の第1回バビロン捕囚(新バビロニアとの戦いに敗れ、南王国の指導者階級がバビロンに連れて行かれる)を経て、587年にエルサレムが陥落し、南王国は滅亡する(第2回バビロン捕囚)。エレミヤが預言者として召命されたのは、南王国のヨシヤ王の第13年(BC626)。この時からエルサレム陥落後まで、エレミヤはイスラエル南王国ユダとその首都エルサレムに対する神の厳しい裁きを語った。その裁きによる彼らの滅びがすぐ近くに迫っていることを語った。しかし、彼らはエレミヤの預言に耳を傾けない。彼らは悔い改めて主なる神に立ち帰ることをせず、依然として偽りの神礼拝と偶像礼拝を続け、偽預言者たちと偽りの祭司たちに従っていた。エレミヤはしばしば同胞の民から憎まれ、迫害を受け、それのみか故郷の友人や家族までが彼の命を狙って追いかけてきた。

 「主の言葉のゆえに、わたしは一日中/恥とそしりを受けねばなりません。・・・わたしには聞こえています/多くの人の非難が。「恐怖が四方から迫る」と彼らは言う。「共に彼を弾劾しよう」と。わたしの味方だった者も皆/わたしがつまずくのを待ち構えている。「彼は惑わされて/我々は勝つことができる。彼に復讐してやろう」と。」(『エレミヤ書』20章8節、10節)

 エレミヤの苦悩がいかに深く、大きく、激しかったか。もはや自分はその重荷に耐えきれない、自分は生まれてこなかった方がよかったと言って自分が生まれた日を呪う。 

 「呪われよ、わたしの生まれた日は。/母がわたしを生んだ日は祝福されてはならない。……/なぜ、わたしは母の胎から出て労苦と嘆きに遭い/生涯を恥の中に終わらせねばならないのか」(『エレミヤ書』20章14、18節)

(システィーナ礼拝堂天井画 祭壇上部)

(システィーナ礼拝堂)

(ミケランジェロ「預言者エレミヤ」)

( レンブラント「エルサレム滅亡を嘆く預言者エレミヤ」アムステルダム国立美術館)

(天井画 全図)

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