「ミケランジェロとシスティーナ礼拝堂天井画」2 サン・ピエトロ大聖堂再建

 教皇ユリウス2世は、ハドリアヌスやアウグストゥスといった古代ローマ帝国の皇帝廟に匹敵する規模の記念碑、史上空前の墓碑建立を構想。1503年の教皇選出直後から設計を開始していた。白羽の矢が当たったのは28歳の若きミケランジェロ。ユリウスは、サン・ピエトロ大聖堂内の礼拝堂で「ピエタ」を目にし、そのできばえに感動し、自らの墓碑もその若き彫刻家に任せたいと望んだ。ミケランジェロは「ピエタ」に続いてフィレンツェ共和国政府の依頼で3年がかりで完成させた「ダヴィデ」で、その名を一層高めていた。

 ミケランジェロはユリウスの野望に応えて、壮大な設計案を提示。幅10m、高さ15m、凝った造りの付け柱やアーチや壁龕には、等身大の大理石像が40体以上も据えられ、上部には高さ3mのユリウス像が飾られることになっていた。ミケランジェロはこの気も遠くなるような大仕事に意欲満々で取り組む。まずフィレンツェの北西100kmにあるカッラーラへ行き、8カ月かけて白大理石の切り出し、運び出しを指揮した。そして1506年初頭には荷車90台分を超える大理石が、サン・ピエトロの門前に山と積み上げられた。しかし、それらの大理石が到着しないうちから、ユリウスの関心は早くも別の、さらに壮大な建築計画へと移っていく。それは何か。サン・ピエトロ大聖堂の再建である。自らの壮麗な墓碑を設けるにしては、今の古びた聖堂はふさわしくないと気付いたのだ。そして、ミケランジェロがカッラーラから戻るころには、すでにキリスト教世界で最古の由緒ある聖堂の取り壊しが始まっていた。そしてサン・ピエトロの再建は、ミケランジェロの仕事にも多大な影響を及ぼす。聖堂の再建には巨額の費用がかかると言って、なんと教皇が突如、墓碑の建設計画を中止したのだ。何百トンの大理石の運搬費用の支払いも終わっていない。あれほど墓碑建設に熱心だった教皇がなぜ?気が短く神経質で猜疑心の強さでも知られていたミケランジェロ。教皇の侍従に「教皇に申し上げよ。今後、私に御用のある時は、ローマにはおりませんからそのつもりで。」と言い捨てて、その日のうちにローマを後にした、二度とローマに戻らぬ覚悟で。

 この夜逃げ同然のローマからの出奔の理由について、ミケランジェロは同郷の友人ジュリアーノ・ダ・サンガッロにあてた手紙の中で、教皇の仕打ちに腹を立てたせいだけではないと、次のように打ち明けている。 「ほかにも事情がありました。けれど今は話したくありません。ローマにいたら、教皇の墓より先に私の墓ができそうだったと言うにとどめておきましょう。あわただしく旅立ったのは、そういう訳があったのです。」   自分が亡きものにされるかもしれないという不安。誰が、一体何のために?そこには、レオナルド・ダ・ヴィンチの親友であり、サンガッロと競ってサン・ピエトロ大聖堂の建築主任の地位を手に入れていたドナート・ダンジェロ・ラッツァーリ、通称ブラマンテ(イタリア語で「貪欲」という意味。彼は野心満々で人一倍強欲だったと言われる)の存在が関わっていた。

(サン・ピエトロ大聖堂)

(旧サン・ピエトロ大聖堂復元図)

(ドナート・ブラマンテ)

(ミケランジェロ「ピエタ」サン・ピエトロ大聖堂)

(ジョヴァンニ・ベッリーニ「ピエタ」ヴェネチア アッカデミア美術館)

(ダニエーレ・クレスピ「ピエタ」プラド美術館)

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