「クレオパトラの神話」3 「クレオパトラとアントニウス」

 古代の歴史家たちが、アントニウスを恋情に狂った、無責任で、無能力な人物とし、同時にクレオパトラを蠱惑(こわく)する女王というイメージに創りあげたのは、両者と戦って滅ぼし初代ローマ皇帝となったオクタウィアヌス(アウグストゥス)の宣伝の筋書きに沿ったもののようだ。

 カエサル殺害後、紀元前42年にオクタウィアヌスとともにカエサル暗殺者たちを撃滅したアントニウスは、翌年小アジアのタルソスでクレオパトラと会見、その美貌と才知のとりことなる。そして、アレクサンドリアに同道し、交情を結んだ。しかし、紀元前40年アントニウスはローマに帰り、オクタウィアヌスの姉オクタウィアと政略結婚し、クレオパトラとの関係は解消したかにみえた。しかし紀元前37年、パルティア遠征のため東方にきたアントニウスは、クレオパトラとの愛情を復活させるとともに、彼女から軍事的支援を得る。2人の間には男女の双生児が生まれた。前36年のパルティア遠征は惨敗に終わったが、クレオパトラはフェニキアまで救援に駆けつけた。紀元前34年、アントニウスはアルメニアで勝利を収めると、凱旋式を慣例に反してローマでなくアレクサンドリアで挙行した。この知らせはやがてローマに達し、紀元前35~紀元前34年にかけてオクタウィアヌスとアントニウスとの間に活発な宣伝と非難の文書合戦が開始され、両者の対立は深まってゆく。紀元前33年、アントニウスはエフェソスに東方のローマ軍団と属州の軍隊を集結、クレオパトラも軍船と軍資金を提供。紀元前32年、アントニウスはついにオクタウィアに離縁状を送り、オクタウィアヌスは、クレオパトラに対して宣戦を布告した(内乱の形式を避けるため、アントニウスに対しては宣戦布告していない)。紀元前31年、天下を賭した「アクティウムの海戦」開始。兵員の数ではアントニウス・クレオパトラ連合軍が上回っていたが、両軍が少し交戦した時点でクレオパトラの艦隊が戦線を離脱。アントニウスはこれを追って撤退したため、指揮官を失ったアントニウス軍は陸海ともに総崩れとなって潰走。オクタウィアヌスの勝利となった。紀元前30年、アレクサンドリアでアントニウスが自殺し、クレオパトラもローマの凱旋式に引き回されることを拒否して、毒蛇に身をかませて死んだと伝えられる。

 こうしてアントニウス、クレオパトラに勝利したオクタウィアヌス統治下のローマで書かれた書物がクレオパトラを厳しく糾弾しているのは当然かもしれない。ホラティウス(紀元前65年~紀元前8年)は『詩集』でクレオパトラを「自らの欲望を抑制できず、運命の女神の甘美に酔いしれ、恋の病で汚れた破廉恥な一群の輩とともに、カピトリウムを廃墟と化し、帝国を滅亡させようとした気違いじみた女王」と謳う一方、オクタウィアヌスのことはこう記した。

「カエサル(オクタウィアヌスのこと)は、マレア(アレクサンドリア西方)のワインで狂った彼女の心を真の恐怖に陥れた。櫂を漕ぐテンポを速めつつ、ちょうど鷹がひ弱な鳩を、腕利きの猟師がハエモニア(テッサリアの別名)の雪原で兎を追うごとく、イタリアから逃げる彼女を追跡し、この破滅をもたらす怪物を鎖につなごうとした」

 しかし、クレオパトラのローマ人の徳に対する脅威を「破滅をもたらす怪物」と表現したホラティウスは、敗北とか美しい英雄的な自殺によって示された女王の勇気を忘れることはなかった。

「しかし、もっと正々堂々と死のうとして、女々しく剣を恐れることなく、快速の艦隊で未知の海辺へ逃亡もせず、勇気を振り絞って陥落した王宮を平然と眺め、気丈夫にも死を覚悟し、そのうえ勇敢にも身体に猛毒を吸収しようと野生の蛇をいじった。もちろんおちぶれていない一女性として、野蛮なリブルニア人に連れ去られ、豪華な凱旋式で引き回されるのを拒否した」

 (ジャン=アンドレ・リクセン「クレオパトラの死」トゥールーズ オーギュスタン美術館)

(クロード・ヴィニョン「クレオパトラの死」レンヌ美術館)

(ジャン=バプティスト・ルニョー「クレオパトラの死」デュッセルドルフ美術館)

(ハンス・マカール「クレオパトラの死」カッセル 国立美術館)

(アルマ・タデマ「クレオパトラとアントニウスの出会い」ルーヴル美術館)

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