夏目漱石と20世紀初頭のロンドン11 「ラファエル前派」

 『三四郎』にある場面。広田先生の引っ越しを手伝いに行った三四郎が、やはり引っ越しの手伝いに来た美禰子と出会い、広田先生の所持していた画帖に出ている絵に美禰子が目をとめ、それを三四郎に見せる。

「『一寸御覧なさい』と美禰子が小さな声で云ふ。三四郎は及び腰になつて、画帖の上へ顔を出した。美禰子の髪(あたま)で香水の匂がする。画はマーメイドの図である。裸体の女の腰から下が魚になつて、魚の胴が、ぐるりと腰を廻つて、向ふ側に尾だけ出てゐる。女は長い髪を櫛で梳きながら、梳き余つたのを手に受けながら、此方(こっち)を向いてゐる。背景は広い海である。『人魚(マーメイド)』『人魚(マーメイド)』 頭を擦り付けた二人は同じ事をさゝやいた。」

                                    (『三四郎』四)

 二人だけの秘密であるかのように小さな声で美禰子に誘われ、「香水の匂」に包まれながら、身を寄せ合い、妖艶な「人魚」の絵に見入る三四郎と美禰子。この絵のイメージを浮かべながらこの場面を読むと、その官能性は一層濃厚さを増す。この絵の作者はジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(1849-1917)。初期はアカデミック様式で描き、後にラファエル前派の様式や主題を取り入れたことで知られるイギリスの画家。これまでギリシア神話の講演を行う際に、物語のイメージを喚起させる作品としてその作品をしばしば取り上げてきた。

 ところで、ウォーターハウスがその様式や主題を取り入れた「ラファエル前派(Pre Raphaelite Brotherhood)」だが、ロイヤル・アカデミー付属美術学校の学生だったダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ウィリアム・ホルマン・ハント、ジョン・エヴァレット・ミレイがによって1848年に結成された(狹義には彼等を指し、広義にはその影響下にある諸作家の総称となった)。このアカデミズム(伝統主義、形式主義)に対抗したアヴァンギャ ルド(前衛部隊、時代の先端)の目指すところは、古典主義にみられる神聖化・美化を排除して「自然をありのままに描く」「美しいものを描く」ということで、写生に重点を置いた。実際、その絵の多くは美しく、生々しい。漱石はテイト・ギャラリー(現:テイト Tate)で時代を映した多くの絵を鑑賞したが、彼ら大英帝国の芸術革命的グループの絵はその中でも漱石の心に強い印象を残したようだ。そのうちの一枚が、ジョン・エヴァレット・ミレイ「オフィーリア」(ロンドン テート・ブリテン)。

 オフィーリアは、シェイクスピアの『ハムレット』に登場するヒロイン。主人公ハムレットの恋人だが、復讐のために佯狂(狂人のふりをすること)となったハムレットに無下にされたあげく、父をも殺され、錯乱して川に落ちて溺死してしまう。ミレーの絵は、オフィーリアが溺死していく姿を描いたものだ。 この絵は、漱石の『草枕』の中で重要な役割を果たしている。主人公である画家の「余」は、「あのような絵を自分の持ち味で描いてみたい」と思い浮かべる存在となっており、絵描きの頭の中には、たえずこのオフィーリアの姿が浮かんでいる。自分もミレーのような絵を描いてみたいと思うが、肝心の女の顔が浮かばない。

「余が平生から苦にしていた、ミレーのオフェリヤも、こう観察すると大分美しくなる。なんであんな不愉快な所を択(えら)んだものかと今まで不振に思っていたが、あれは矢張り画になるのだ。水に浮かんだまま、あるいは水に沈んだまま、あるいは沈んだり浮かんだりしたまま、只そのままの姿で苦なしに流れる有様は美的に相違ない。それで両岸に色々な草花をあしらって、水の色と流れて行く人の顔の色と、衣服の色に、落ちついた調和をとったなら、屹度(きっと)画になるに違いない。然し流れて行く人の表情が、まるで平和ではほとんど神話か比喩になってしまう。痙攣的な苦悶はもとより、全幅の精神をうち壊すが、全然色気のない平気な顔では人情が写らない。どんな顔をかいたら成功するだろう。ミレーのオフェリヤは成功かも知れないが、彼の精神は余と同じところに存するか疑わしい。ミレーはミレー、余は余であるから、余は余の興味を以って、一つ風流な土左衛門をかいて見たい。しかし思うような顔はそうたやすく心に浮んで来そうもない。」(『草枕』七)

 漱石とラファエル前派、これまであまり考えたことはなかったが、それを探ることで漱石作品の魅力の秘密の一端が見えてきそうだ。

 (ジョン・エヴァレット・ミレー「オフィーリア」ロンドン テート・ブリテン)

(ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス「マーメイド」ロンドン ロイヤル・アカデミー)

(ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス「エコーとナルキッソス」リバプール ウォーカー・アート・ギャラリー)

(ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ「プロセルピナ」バーミンガム美術館)

(ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ「ヴェヌス・ヴェルティコルディア(心変わりを誘うヴィーナス)」ラッセルコーツ美術館&博物館)

0コメント

  • 1000 / 1000