夏目漱石と20世紀初頭のロンドン4

 漱石が留学していた当時のロンドン、イギリスはどのような状況だったか?ロンドンに到着した翌日、早速その時代を象徴する出来事に漱石は遭遇する。「南ア戦争義勇兵凱旋祝賀パレード」だ。一体どの様なパレードだったのか?

 まず南ア戦争とは南アフリカ戦争=ボーア戦争のこと。イギリスが、植民地支配をフランス(アフリカ横断政策)に対抗してアフリカを南北に縦断する形で南アフリカのオランダ系住民の国トランスバール共和国とオレンジ自由国まで伸ばしたい、特に二つの国で発見されたダイヤモンドや金などの鉱物資源を手中に収めたいという野心から生じた戦争で、1899年10月に開戦。漱石が遭遇した「南ア戦争義勇兵凱旋祝賀パレード」の「義勇兵」とは、「CIV」(Civic Imperial Volunteer)と呼ばれる市民義勇兵。彼らは、遠い南アフリカでイギリスを勝利に導いた兵士たち。その日は、彼らの雄姿を一目見ようと朝から大変な人出。パレードが行われた街路の両側は少しでも近くで見ようとくり出した群集が大歓声を上げ、身動きもとれない状態に陥っていた。しかし、歓迎ムード一色だったわけではない。開戦当初、出征する多くの兵士たちは、家族や恋人、友人に「クリスマスまでには帰ってくるよ」と言ってイギリスを後にした。しかし、短期終結という当初の見込みは、現地の地理に熟知して巧みな奇襲作戦を展開するボーア人の粘り強い抵抗の前に、もろくも崩れる。それでも1900年1月には、18万人という大量のイギリス兵の投入によってイギリス軍は攻勢に転じ、6月までにトランスバール共和国とオレンジ自由国の首都を陥落させた。しかし、それでも1902年5月まで戦争は続く。なぜか?ボーア軍が、不利になった形勢を巻き返すべく、駅や線路、道路などを破壊するゲリラ戦へと戦略を転換したからだ。これに対してイギリス軍は、報復を目的とした新たな戦略を展開。ボーア人の農場や家屋に火を放つ焦土作戦と、女性と子どもの収容所送りという非戦闘員をターゲットにした作戦だ。こうして戦争は泥沼化していった。結局この戦争でイギリスは、死者6千人、負傷者2万3千人を出した(ボーア軍側の死者は4千人)。

 こんな状況だったから、漱石が遭遇したパレードには、植民地戦争に反対する人たちのデモや大量のフーリガンが加わり、至る所で衝突や喧嘩、殴り合い、暴動が発生。大勢の警察官や軍隊が規制のために出動したにもかかわらず、死者2名、負傷者13人、迷子数百人が出る未曽有の大騒動になった。ここまで至ってしまったのは、イギリス国内でも戦争に反対する不満の声は高まり、おりから、総選挙が行われるということもあって、この戦争の是非をめぐって大きく世論が分裂、大論争が巻き起こっていたからだ。

 ではこのようなパレードに遭遇し、群衆の波にもまれた漱石は何を感じてたか?1909年に書いた『永日小品』「印象」の中にこんな一節がある。

「・・・立ち止まって考えていると、後うしろから背の高い人が追おい被かぶさるように、肩のあたりを押した。避よけようとする右にも背の高い人がいた。左にもいた。肩を押した後の人は、そのまた後の人から肩を押されている。そうしてみんな黙っている。そうして自然のうちに前へ動いて行く。  自分はこの時始めて、人の海に溺おぼれた事を自覚した。この海はどこまで広がっているか分らない。しかし広い割には極めて静かな海である。ただ出る事ができない。右を向いても痞つかえている。左を見ても塞ふさがっている。後をふり返ってもいっぱいである。それで静かに前の方へ動いて行く。ただ一筋の運命よりほかに、自分を支配するものがないかのごとく、幾万の黒い頭が申し合せたように歩調を揃そろえて一歩ずつ前へ進んで行く。・・・そうして眼の疲れるほど人間のたくさんいるなかに、云うべからざる孤独を感じた。」  

 南ア戦争という植民地戦争の支持とか反対とは全く無関係に、「人の海に溺おぼれた」漱石が味わった深い孤独感と冷めた意識。それは作家夏目漱石の誕生(1904年『吾輩は猫である』を発表)につながっていく体験だったように感じる。 

(戦地へ赴くロンドンの「市民義勇兵」)

(義勇兵の行列をみるオックスフォード街の人々)漱石もこの人々と同じオックスフォード街を歩いた


(セシル・ローズ 1892年『パンチ』)

イギリス帝国の植民地政治家 ケープタウンからカイロへ鉄道用の電線を敷設するローズを風刺

イギリスのアフリカ縦断政策がよく表されている

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