夏目漱石と20世紀初頭のロンドン3

 漱石のロンドン留学生活は、どのようなものだったか。よく知られているのが『文学論』「序」の次の一節。

「倫敦(ロンドン)に住み暮らしたる二年は尤(もっと)も不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあつて狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営みたり。」

 文字通りに受け取るわけにはいかないが、焦燥と孤独ばかりが募る日々だったことは日記、手紙からも伝わってくる。ところで、漱石の「留学生活」は、その言葉から連想するイメージとはかなり異なっていた。我々は、「留学」は当然、特定の大学での勉強が中心になると考えるが、漱石の場合留学先は文部省から指定されていなかった。したがって、どの大学にするか自ら決めなければならなかった。行きのプロイセン号の船中で出会った宣教師の夫人ミセス・ノットから、ケンブリッジ大学のプンブロク学寮にいるアンドルーズ司祭あての紹介状を入手した漱石は、ロンドン到着4日後、ケンブリッジ大学にアンドルーズ司祭を訪ねる。司祭はわざわざ漱石を客舎に一泊させて、詳しく大学の事情を説明してくれた。しかしケンブリッジ大学留学は断念。理由は学費が高すぎること。文部省派遣のロンドン留学生と言えば、誰もが羨むエリートというイメージが浮かぶかもしれないが、実態はとてもエリートと呼べるようなものではなかった。学費や生活費は微々たるもので、日本からケンブリッジに留学して卒業した学生は、明治初期の政府派遣の留学生か、家が裕福で、不足分を補えるだけの資産に恵まれた家庭の子弟だけだった。ケンブリッジが無理なら、オックスフォードも同じ。それなら、スコットランドのエジンバラ大学はどうか。確かに、物価が安いから正規(聴講生などではない)の学生としてやっていけるだろう。しかし、問題がある。そこで話されるのは、訛りの強いエジンバラ方言。それを学んでも意味はない。この間の経緯を友人に宛てた手紙でこう説明している。 「エジンバラは景色が善い、詩趣に富んでいる、安くも居られるだろう。倫敦(ロンドン)は烟(けむり)と霧と馬糞でうずくまっている。物価も高い、で、よほどエジンバラに行こうとしたがここにひとつの不都合がある。エジンバラあたりの英語は発音が大変違う。まず日本の仙台弁のようなものである。せっかく英語を学びに来て仙台の「百ズー三」など覚えたって仕様がない。それから倫敦の方はいやなところもあるが社会が大きい。女皇が死ねば葬式は倫敦を通る。王が即位すればプロクラメーション(宣言、発布)が倫敦である。芝居に行きたければWest Endに並んでいる。それから僕にもっとも都合が善いのは古本などを探すには(新しい本でも出版社は対外倫敦である)ここが一番便利である。以上の訳でまず倫敦に止まることに致した。」

 こうしてロンドン大学のユニヴァシティ・カレッジで、ウィリアム・ペイトン・ケア教授の英文学の講義を受講することにする。しかし、下宿を引っ越してからは、交通が不便で時間がかかるのと、授業料もばかにならない、講義そのものにもそれほど興味が持てないということで、2カ月ほどでやめてしまう。結局、ケア教授の紹介で、シェークスピア学者でアイルランド人のウィリアム・クレイグ先生を紹介してもらい、週1回個人教授をうけることになる。このロンドンにおける社会的弱者のアイルランド人(選挙権も与えられていない)のクレイグ先生ほど、二年間のロンドン生活において、漱石に影響を及ぼした人物は他にはいないと言われるが、その個人教授も1年も経たずにやめてしまう。その頃漱石は、残り1年の留学生活を思い焦っていた。自分は英文学者として何をすればいいのかがまだ見えていなかった。学殖豊かな一流の学者であるクレイグ先生は、日本人がどのように英文学に向き合うかは教えてくれない。金銭的事情もあったが、自分が何をなすべきかに正面から向き合おうとして、漱石はクレイグ先生の教えを断った。そしてどうしたか?下宿に籠って、ひたすら『文学論』研究(もちろん独学で)に没頭する。

「・・・余はここにおいて根本的に文学とはいかなるものなるぞと云える問題を解釈せんと決心したり。同時に余る1年を挙げてこの問題の研究の第一期に利用せんとの念を生じたり。余は下宿に立て籠もりたり。・・・余は心理的に文学はいかなる必要あって、この世に生まれ、発達し、頽廃するかを極めんと誓えり。余は社会的に文学はいかなる必要あって、存在し、興隆し、衰滅するかを極めんと誓えり。」

 これが漱石の「留学生活」の実態だった。 

(イギリス留学の行程)

(大学生の漱石 25歳頃)

(クレイグ先生)

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