キリスト教の教え7 イエスの誕生③
マリアの妊娠を知った婚約者ヨセフはひどく悩んだことだろう。「マタイによる福音書」はごく簡単にこう記述する。
「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」
マリアから、「男の人を知らない」、「聖霊によって身ごもった」と言われてもマリアが姦淫の罪を犯したという疑念を払拭することはできなかっただろう。愛するマリアに起きたことだろうと、罪を犯しているのにそれを隠すのは神の掟に背く。かといってマリアを裁きの場につき出せば、マリアは姦淫の罪を問われ、石打ちの極刑(死刑)を免れない。だが、もしマリアのいうことが本当だとしたら?マリアの妊娠が聖霊によるとしたら、自分は罪のないものを死刑執行人の手に引き渡すことになってしまう。それは避けたい。いったいどうしたらいいのか。悩みぬいたあげく、ヨセフが出した結論は、マリアをひそかに離縁することだった。その夜、そんなヨセフの夢に、主の天使が現れてこう告げる。
「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
ヨセフは天使の言葉に従う。ザカリアのように神の言葉に疑いをはさむことなく、マリア同様天使が告げる神の言葉を信じた。まさにヨセフは「正しい人」であった。そういう人物だったからこそ神はヨセフを、イエスの父に選んだのだろう。
「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」
ところで天使はこの時、次のようなことも言っている。
「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」
ここに書かれている「インマヌエル」の意味は、「イエス」が「主が救って下さる」の意味であるのに対して、「神が私たちと共におられる」。「イエス」と「インマヌエル」はどういう関係にあるのか?
神は最初の人間のときに損なわれてしまった神と人間との結びつきをもとにもどすためにイエスを十字架に架けて死なせるとともに、復活させた。その人間のために神がなされた救済を、人間はどうすれば自分のものにできるだろう。まず、イエスの十字架上の死と復活を神が人類救済のためになされた行為と信じ洗礼を受けること。それによって聖霊を受けながら生きられるようになるからだ。しかしそれで終わりではない。ルターがよく強調するように、洗礼を通して人間に植えつけられた内なる新しい人を日々育て、前々から存在する内なる古い人を日々死に引き渡していかなければならない。聖霊に結びつく新しい人と肉に結びつく古い人との間の内的な戦いが必要なのだ。そして、この戦いを支えるのが「共におられる神」=「インマヌエル」。キリスト教の神は、単なる理想や原理ではなく、み子イエスにおいて人間の中に入り込み、人間とともにいる。そして「共にいる」というのは、「かつて」ではなく「今」、遠い「彼方」ではなく「ここに」いるということ。こういう信仰を持った時、人間はどれほど力強く人生を歩めることだろうか。孤独と絶望に悩み苦しむ人々にとってどれほど大きな希望となりうることだろうか。
(ピエロ・デッラ・フランチェスカ「出産の聖母」マドンナ・デル・パルト美術館)
(アントン・ラファエル・メングス「ヨセフの夢」ウィーン美術史美術館)
(ラ・トゥール「ヨセフの夢」ナント美術館)
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